田崎和江*(*本学会正会員)・松浦明久・片山和哉・加波瑞恵・新宅義昭・新宅睦子・福山厚子(市民科学メンバー)・三井 新(朝日新聞)
(注)図の画像をクリックすると大きな画がご覧いただけます。
1997年1月2日,2時41分頃,ロシア船籍タンカー“ナホトカ号(13,157トン)”の船首部が脱落して,同後部が島根県隠岐島北北東106kmに沈没した.この事故で乗務員32名(全員ロシア人)のうち31名が救出されたものの,船長は死亡した.そして,折からの秒速30m前後の強い西風にあおられ,1月6日には船首部分が福井県三国町安東沖に座礁した.ナホトカ号には重油19,000kl(ドラム缶95,000本分)が積載されており,ナホトカ号から流出した重油は福井県越前海岸に漂着し,さらに1月7日には加賀市塩屋海岸にまで達した.さらに,悪天候により初動対応に遅れが生じ,船からの重油の回収作業,オイルフェンスの設置および処理剤散布ができず,最終的に重油は石川県内のほとんどの海岸に漂着した(図1).漂着した重油は柄杓と素手の手作業で回収され,2月16日までに,三国町でドラム缶12,598本,加賀市で4,716本,門前町で5,632本,輪島市で15,005本,珠洲市で21,099本分の重油が回収されたものの(田崎ほか, 1997),3月下旬になっても,能登半島の海岸には重油の漂着/再漂着が繰り返された.4月末までには石川県内の市町村の一部が対策本部の縮小または終息宣言を出したが,ナホトカ号の本体からは重油の流出が依然として手付かずのまま続いており,特に,海藻・モバの産地である輪島のアタケ海岸では,終息宣言後も,漁業関係者が海岸に打ち寄せる油交じりのロープやフレコンバックを自ら回収して,1-2 m深く掘った海岸脇の砂場に埋めるなどの作業が続いた(図2-1).
図1.調査位置図. |
24年前,田崎は地元の新聞記者と一緒に能登半島の海岸へと向かった.現場には太陽が昇る前に到着したが,波が打ち寄せる音がしなかったのを覚えている.明るくなってから,よく見ると,海面が厚さ約30cmの重油に覆われており,聞こえてくるのは油の下で波がうごめく音だけだった.磯の香りはなく,空気を吸うと,口の中まで重油の臭さでいっぱいになった.流出した油は水にはほとんど溶けず,海流にのって,海の表面を漂いながら拡散していった.色は真っ黒ではなく,茶色を帯びていた.
一般に,海面を漂いながら広がった油は,海に漂うゴミや海藻,貝などを吸着し,流出した油の10倍近い体積になる.そして,色々なものを吸着すると比重が増し,海の底へと沈んでいく.そうなると,もう回収の術はない.ナホトカ号の事故発生直後の教訓として言えるのは,油の回収作業は一刻を争う時間との勝負だということだ.初期の対応で重要なのは汚染源を絶つことである.そのためにはまず,座礁した船からこれ以上の油の流出を防ぐために,オイルフェンスで船を囲い,なるべく多くの油を沖合で回収した方がいい.そして,空から海流の向きを確認し,油が流れて行く方向に船を出して,海上で油をすくい取り,タンクに集めることだ.
漂着してしまった油は人海戦術で回収するしかない.ナホトカ号の事故の際は,北は秋田県から南は島根県まで,25万人以上の地域住民とボランティアがバケツリレーをして,流れ着いた重油をくみ取る作業をするなどの重油回収作業にあたった.燃料油は揮発性であるため,眼鏡やゴーグルをつけていないと目が充血し,マスクなしでは揮発した油で息苦しくなり,頭痛もした.そして,着ていたカッパは油まみれになった.なお,油まみれになったカッパ類は石油につけた雑巾でふき取るときれいになった.一方,目の前では,重油が羽に付着して,身動きが取れなくなった多くの海鳥がバタバタと落ちて死んでいった.たとえ,油から助け出しても,重油をのみ込んでしまったためか,飛べずに息絶えた鳥もたくさんいた.魚類もたくさん死んだ.三国海岸沿いには,きれいなスイセンが群生していたが,重油を吸収しほぼ全滅してしまった.海岸沿いの松林も枯れ木が目立った.このように重油流出事故は海水のみならず,大気・土壌・植物をも含む環境全体に被害を及ぼした.なお,事故当時の詳しい状況は,田崎(1997)を参考にされたい.また,海水組成の変化は,1997年1月10日から12月7日まで三国町安島(船首東)から珠洲市長橋海岸まで43ケ所で測定した海水の性質データ(Tazaki et al., 1997のTable 1)を参照されたい.
事故から20年経った2017年に,私たちは,事故の際にアタケ海岸に埋められた漁網やロープ,フレコンバックを掘り出し,それらの電子顕微鏡観察と化学分析を行なった.それらにはまだ重油独特の粘性や臭いが残っており,海岸の岩場にも固まった重油が見られた.一方で,紫外線や重油を分解菌の働きによって,重油は無臭で粘性もない,無害の無機物に変化していた(Tazaki, et al., 2018).
図2-2.三国海岸の岩石表面に見られる重油 |
図3-1 アタケ海岸で採取したフレコンバックの中身. |
図3-2 アタケ海岸.過酸化水素水噴霧実験.A:実験前, B:過酸化水素水噴霧,C:発砲反応(矢印). |
図4-1三国海岸SEM-EDS |
図4-2 アタケ海岸SEM-EDS. |
図4-2continued |
ナホトカ号の事故から,今年で24年が経過した.日本海沖で座礁したナホトカ号の事故では約6200トンの重油が流出し,田崎研究室の学生・大学院生は事故発生の翌日から漂着した重油の回収や分析を続けてきた.そして今,海はどうなっているのだろうか?2017年,輪島市の海岸で砂に埋もれた漁業ロープにはまだ重油独特の粘性や臭いが残っており,海岸の岩場にも固まった重油が見られた.一方で,自然界には重油の分解菌という微生物がいることも明らかになり,紫外線や分解菌の働きによって,重油は蝋燭の一種に変化して,無臭で粘性もない,害のない無機物に変化していた.しかし,2020年の調査では,アタケ海岸で採取した試料は,地中に埋められ24年間経過した後でも,重油本体の性質をいまだに保持していることがわかった.その結果は20年以上経っても能登半島の海岸には重油の成分が残っていると言えよう.
2020年7月25日,インド洋の島国モーリシャスで日本企業の大型貨物船が座礁し,8月6日には積んでいた燃料油が周囲の海に流出した.流出した油は約1000トンにもなり,サンゴ礁やマングローブ林など豊かな自然が広がる海域に広がった.これを受けて,モーリシャス政府が環境非常事態宣言を出すに到り,生態系への影響はこの先何年も続くとも指摘されている.今回は,日本の船がモーリシャスに被害を与えた形だ.報道によれば,コロナの問題があったとはいえ,1週間もの間,何ら対策を施さなかったとされる.事故発生からすでに半年が経過するが,まずは海上や砂浜の油を一刻も早く回収することだ.お金を支払って済ます問題ではないかと思う.他国で被害を引き起こした日本は,早急に専門家を派遣し,その後も責任を持って,『電子顕微鏡レベルで』現地の環境を見守り続けるべきだ.
(2021.3.15掲載)
※本記事は,日本地質学会News Vol. 24, No. 3(2021年3月号)にも掲載しています.