正会員 石渡 明
1.はじめに
米国地質学会の情報誌GSA Today最新号の表紙と冒頭に,ギリシャ・ペロポネソス半島のゼウス霊場は,古成(こじょう)(古第三)系暁新(ぎょうしん)統にジュラ・白亜系が衝上(しょうじょう)するクリッペの上にあったという文理融合研究の報告が載っている(Davis, 2017).スイス中部シュヴィッツ(Schwyz)州のヘルベチア帯北縁部の白亜系にペンニン帯のジュラ系石灰岩が衝上するミューテン(ミーテンMythen)クリッペもゲーテが感動した「神話の山」であり,米国モンタナ州ロッキー山脈の白亜系に先カンブリア系が衝上する酋長(しゅうちょう Chief)山クリッペ(現地語名はNinaistako)も雷神が住む聖山だという.日本の山岳信仰の主な対象は富士山,白山(はくさん),御嶽山(おんたけさん)等の火山だが,伊吹山や霊仙(りょうぜん)等のクリッペも古来信仰されてきた.
地質学において,ナップ説(クリッペや衝上断層を含む)の歴史は古く,付加体説はおろか地向斜説より前からあり,日本でも20世紀前半に全国から衝上断層やナップ,クリッペ等が多数報告され,それらを構造発達史に組み込んだ議論がなされていた.何事によらずルーツの把握は重要で,古い文献を読むと現代の研究の盲点に気づくこともある.小論では日本のナップ説の歴史を簡単に紹介し,若い研究者の参考に供したい.
2.アルプスのナップ説
ほぼ水平な衝上(しょうじょう)断層(スラストthrust)をすべり面として,その上を数kmから数10km移動した地層や岩塊をナップとよぶ(英語・仏語nappe,独語Decke,衝上片,衝上体,衝上帯,衝上地塊,横(おう)移(い)岩塊,thrust sheet等ともいう).仏語の日常会話でnappeは「テーブル掛け」のことで,広く平らに覆う物体を言う.ナップを構成する地層は一般にその下盤側の地層より古い時代のもので,ナップ内部の地層の上下が逆転していることもあり,その場合は押(お)(推)し被(かぶ)せ褶曲(しゅうきょく)(recumbent fold,横臥(おうが)褶曲ともいう)の下側の翼(よく)が破断して形成されたと考えられる.ナップには元々押し被せ褶曲だったものが多いようで,アルプスのオフィオライト・ナップにも逆転したものや褶曲の頭が見えるものがある(Ishiwatari, 1985).また,ナップが侵食等によってその本体から切り離されたものをクリッペという(断崖,絶壁の意).これは独語のKlippe(複数はKlippen)で,英語では小文字で書くが(複数はklippesも可),outlier(根無し地塊)という語も使う.ただし,根(root, Wurzel, Heimat)と連続していなくても,大きなものやクリッペの集合はナップ(デッケ)という.なお,上述のミーテンは「Klippen-Decke」に属するが,これはプレアルプスの東方延長に並ぶペンニン帯起源のクリッペ群を指す固有名詞である.
衝上現象はスイスのグラールス(Glarus)州(シュヴィッツ州の東隣)のヘルベチア帯で1840年にArnold Escherにより発見されたが,これを地域地質学的にきちんと記述したのは1870年のAlbert Heim(ハイム)が最初である.Heimは南北両側から押し被せ褶曲が押し寄せたと考えたが,1887年にMarcel Bertrand(ベルトラン)は1つのナップが南から北へ衝上したという考えを発表した.1892年にEdward Suess(ジュース)がBertrandの考えを支持し,Heimも1903年にこの考えに同意した.そして1905年以後,ナップ説に基づくアルプス全体の地質の体系化が,地向斜から地背斜への転化の文脈としてEmile Argand(アルガン)によって完成され(地向斜説),これに基づいて英語によるアルプスの地質のわかりやすい教科書が出版され,日本でも広く読まれた(Collet, 1927).この段落は同書2版(1935)のp. 19に基づくが,杉村(1987, p. 31)も参照されたい.
3.日本の戦前のナップ説
さて,日本初のナップが発見されたのは滋賀・岐阜県境の伊吹山(いぶきやま)である.小藤(ことう)(1910,明治43)はその模式断面図を示し,「[伊吹山麓の]川底の硬砂岩が東西に走り直立し…山腹以上は厚き石灰岩が平層を為しつつ被覆し,[両者の境界の]特種の石灰岩は地層が乗り掛かり横滑りしたる時の摩擦破砕物の如き観あり…これを予は伊吹山の押し辷り構造(overthrust)と名づけり.かくの如き例は本邦に於いてその記事をいまだ知らず.」と述べている(カタカナをひらがなに改め,[ ]内と句読点,送りがな等を補い,〜石は〜岩とした).
次に,中国地方の秋吉台石灰岩のフズリナ化石を研究した小澤(1923)は広域的な地層の逆転を発見し,「逆転の事実には毫も疑う余地はありません.しからば如何なる地質構造になっているのか.未だ私はこの問題についてあまり考えておりません.ですから今はただ簡単に頭に浮かんだ事を少し書いてみましょう.私のような初学者の解釈は不十分の事は勿論(もちろん)ですから,皆様が以上述べたデータで如何ようにでもお考え下さらんことを希望します.矢部[長克(ひさかつ)]先生は秋吉台を見てliegende Falten [独語,横臥褶曲]だと言いました.私も勿論この解釈に賛成するのです」と述べて,南から北へほぼ水平に押し被せた横臥褶曲の断面図を示した(引用文はかなを現代風に改めた).彼は台地の周囲の地層も含む横臥褶曲を考えたが,後の研究者は石灰岩体だけをナップと考えた.しかし,衝上面の位置や衝上の向きの解釈は各人異なり(小林, 1950, p. 60; 河合, 1970, I, p. 36-37),最近は 細片化された構造岩塊の集合体とする解釈もある(Sano and Kanmera, 1991).
そして,秋吉に続き飛騨山地 (藤本, 1930),伊吹山(関, 1939),霊仙(瀧本, 1936),大賀 (張, 1939) 等で衝上断層が報告され,小林 (1941, 1951) は自身の観察も含めてそれらを統合し,西南日本内帯では古生代後期〜三畳紀の秋吉造山輪廻(りんね)の後,ジュラ紀〜白亜紀前期の「大賀時階の佐川造山輪廻」によってこれらの衝上が生じ,衝上の向きは基本的に北から南で,そのフロントに沿って夜久野塩基性岩が貫入したとした.また,西南日本外帯ではやや遅れて白亜紀中頃の「佐川時階の佐川造山輪廻」により,特に四国で多数の衝上断層が形成されたとした.しかしその後,夜久野オフィオライトは古生代後期のナップと判明し(石渡, 1989),私の論文を読んだ小林貞一先生から「秋吉造山輪廻に関する火成活動が一段と解明され…興味深く感じました…平成2歳暮 白貞居士」(当時89歳)という葉書をいただいた.
一方,北海道ではこの頃炭田調査が進み,石狩炭田では石炭を含む新生代の地層の上にアンモナイトやイノセラムスを含む中生代の地層が広く載っていることがわかり,これらが日高山脈側から押し出したナップやクリッペであるとされ,さらに神居古潭(かむいこたん)変成岩や蛇紋岩からなるナップやクリッペも報告された(Imai, 1926; Nagao, 1933; 大立目, 1941).
他方,ナップ説への反対も早くからあった.関東山地北東縁部の一連のナップは藤本(1937)が発見し,澤秀雄や渡部景隆と共に詳しく研究した.三波川変成岩やミカブ緑色岩に帰属不明の花崗岩類,変成岩類,礫岩等が衝上したり,三波川やミカブの下の地(じ)窓(まど)(window, Fenster)に秩父帯の堆積岩が現れたりするが,杉山(1943),井尻ほか(1944),杉山ほか(1944)はこれに反対し,断層はなく一連整合であるか,または火成岩の貫入によるものとし,この論争は戦後も続いた(藤本, 1951, p. 63-65).現在,跡倉と金勝山は十分な野外地質的・年代的根拠によりナップ(クリッペ)とされている(日本地質学会編, 2008).
4.日本の戦後のナップ説
1945年の終戦後,日本の太平洋側の堆積盆は「地向斜」ではなく「地単斜」であり,「地単斜帯では地史の上に特別な造山期というものが認められず」,「日本では作用する力は偶力の状で…大陸側から高水準に,太平洋側からは低水準に…反対に押した形である」という考えを述べた日本地質学会会長もおり(槇山, 1947),太平洋底の岩盤が日本列島に押し寄せ日本列島下に衝下(しょうか)(underthrust, subduct)しているとする,プレートテクトニクスを彷彿とさせるような「太平洋運動」の提唱もあったが(江原, 1963),結果的にそれらは大きな影響力を持たなかった(偶力とは,1つの物体に働く,大きさが同じで向きが逆の一対の力で,2つの作用点を結ぶ方向と力の方向が一致しない場合を言い,物体に回転運動や剪断変形を生じる).しかし,日本各地の地質図作成の中で多数のナップやクリッペの発見が続き(河合, 1970),次の飛躍の基礎となった.主な1/5万地質図を北から挙げる:山部,大夕張,石狩金山,紅葉山**(夕張岳衝上等),能代*,森岳*(能代衝上),羽後和田*,本荘*(北由利衝上),酒田*(酒田衝上),寄居**(金勝山クリッペ),清水*(糸静線則沢クリッペ),八尾,白木峰*,東茂住(横山衝上),荒島岳(伊勢衝上),根尾(徳山衝上),彦根東部*(霊仙クリッペ),御在所山*(竜ヶ岳クリッペ),神戸*(丸山衝上等),若桜*(蛇紋岩),津山東部(美作衝上),蒲江*,延岡**,諸塚山*,神門*,椎葉村**,村所**(延岡衝上)(出版年: 無印1953-70, *1971-90, **1991-2010).
プレートテクトニクスが1970年代に確立され,海溝から日本列島の下に延びる深発地震面やその発震機構,それに伴う地殻変動等がその理論によって説明されるようになっても,地質研究者がその理論を受け入れて,それによって日本の地質を説明するようになるまでには,1980年代の「放散虫革命」(佐藤, 1989; 武村, 2011)を経ねばならなかった.この革命によって,日本列島全体が付加体のナップ構造からなり,衝上断層によって古い付加体が上,新しい付加体が下に重なるという考えが十分な野外地質と化石年代の根拠をもって確立され,1990年代以後は地質研究者の間に広く受け入れられるようになった.
なお,付加体・オフィオライトを限る衝上断層の様子や飛騨ナップの問題については石渡ほか(1999)や石渡(2003a)を参照されたい.そして,ナップ説の現状については,朝倉書店の「日本地方地質誌」全8巻やロンドン地質学会のThe Geology of Japanを参照されたい(石渡ほか, 2016).
5.おわりに
最後に強調したいことは,上に述べたナップと押し被せ褶曲の関係のように,断層と褶曲の間には常に密接な関係があり,付加体のナップ構造も必ず大規模な褶曲を伴っているはずで,さらには(衝上断層に限らず)地表付近の活断層も地下深部の基盤岩の褶曲(基盤褶曲)と関連して発生しているはずだということである(藤田, 1983).例えば,別所文吉によると,1891年濃尾地震を起こした根尾谷断層は美濃帯(ジュラ紀付加体)の背斜(アンチフォーム)軸に沿っている(石渡, 2003b).今後はこのような視点からの断層と褶曲の関係の解明を期待したい.
文献
(2018.1.23掲載.2.13,2.16一部修正)