〜2018年日本地質学会創立125周年を記念して〜

 

トリビア学史 11 新島襄と地質学 


矢島道子(日本大学文理学部),林田 明(同志社大学理工学部)
 

新島襄(1843-1890)は同志社を創設したキリスト者であるが,地質学に親しかったことはすでに知られている(島尾,1986,1989;八耳,2001など).同志社大学は2017年5月16日(火)〜7月9日(日)に,ハリス理化学館同志社ギャラリーにて,第12回企画展「新島襄が感じた地球」を開催した.同志社大学の文化系公認団体である地学研究会が2017年に創立50周年を迎えたのを機に,同志社における地学の意義を考える企画展であった.このとき初めて新島旧邸にある化石及び岩石鉱物標本の肉眼鑑定が実施され,その成果の一部も公開された.

新島はどこで地質学と出会ったか
新島は幕末に国禁を犯して渡米し(1865年),アメリカの高校,大学,神学校で学んだ.日本にいる間にアメリカの地理書『聯邦志略(れんぽうしりゃく)』を読んで感動したという記録があり,世界的な視野から地理に大きな関心を寄せていたが,日本では地学的な情報には出会わなかったと思われる.新島がアメリカで受けた教育は,もちろん,キリスト教の関係が多いが,一般教養的な理学もラテン語も教育課程に含まれており,新島は積極的に学んだ.1867年,アーモスト大学(Amherst College)に入学し,1870年理学士として卒業している.札幌農学校に大きな影響を及ぼしたクラーク(WilliamSmith Clark 1826 - 1886)はアーモスト大学で化学などを教えていたが,新島が入学した年の8月にマサチューセッツ農科大学の学長に就任している.新島がクラークから直接教えを受けた可能性は低いと思われるが,クラークが導入した化学の学生実験は体験した.その後,1872(明治5)年にアメリカで岩倉使節団に出会い,田中不二麿(1845 - 1909)に同行して,初めはアメリカを,そののち,ヨーロッパの高等教育機関などを視察した.1874年,10年ぶりに日本に帰国し,翌年,同志社英学校を京都に設立した.

アメリカで受けた教育
新島はキリスト者の学校で教育を受けたから,エドワード・ヒッチコック(Edward Hitchcock 1794-1864)の自然神学的地質学の教科書(1851年初版)に基づく講義を受けた.ヨーロッパの視察から戻った後,1873年に同書(1860年版)を購入しており,それが新島の蔵書として保管されている.この他に,チャールズ・ライエルの『地質学原理』(第11版, 1873, 1874年),ジェームズ・デーナの鉱物学の教科書(1875年)なども蔵書に存在する.今回の展示では,図1のように,かなり大きな地質断面の概念的説明図があった.GRANITE(“G”の文字は“C”に近い字体)と書かれた基盤岩の上に変成岩,シルル紀,デボン紀,石炭紀,ペルム紀,三畳紀,ジュラ紀(ライアスなど),白亜紀,第三紀の地層が載り,火山は地下の玄武岩が吹き出ているように,エトナ火山は地下の花崗岩の地殻に溶岩が貫入して噴火しているように説明されている.どうやら,これはロンドン大学(UCL)で1855年から77年まで地質学教授を務めたJohn Morris(1810-1886)が1858年に発表した断面図のコピーのようだ.新島の断面図には針でつけたらしい穴もいくつか見られ,筆記体の文字は明らかに新島の筆跡なので,新島が手ずから複写したように思われる.

ヨーロッパでの経験
岩倉使節団に同行して,欧米を視察したときの記録が残っている.新島が何に興味をもったか,よくわかる.たとえば,「[1872年]7月3日(水)私たちはグリニッチ天文台を訪れた.大型の望遠鏡を見学する.水力によって回転する輪により,地球の自転に合わせて回るようになっている.望遠鏡と写真により,磁気嵐を発見する過程を見学した.また風量区,風速,方向を観測する機器をも見た(『新島襄自伝』p.151)」と書き,さらにその機器をスケッチしている.新島のスケッチも今回いくつか展示された.彼が天文学に強い関心を寄せていたことがわかる.記録を読むと,新島が地質学の何に興味をもったのかがわかる.マンチェスターの家は「大概軟石(フリーストーン)で出来ており,」グラスゴー大学の建築材は「大部分がフリーストンで,柱にはスコットランド大理石(真の花崗岩),レッドストーン,緑大理石等を用いて」いると記した.スイスのベルンでは地質学博物館に行き,「アルプスから出たいくつかの標本を見」,ライン川に沿って建つ城の大部分はけわしい岩の上に建てられており,「こうした岩は,火山によって形成されたに違いない」と記す.アメリカでの教育で得た地質学の知見をいかんなく発揮している.

日本での化石・鉱物採集
アメリカで学んだ地質学は,当然ながら帰国後も活かされた.『新島襄自伝』の[1878年]4月2日(火)(p.192)には,「中後閑村の上原春朔君の宅に至り,それより三里も山の奥に行く.フォッスル[化石]の有る所に至り,スペスメン[標本]を取れり.」という記載がある.中後閑村は新島襄ゆかりの地である群馬県安中市の後閑川沿いに位置し,付近には中新世の浅海堆積物が分布する.新島旧邸には中新世の貝化石が数点残されており,これらが安中で採集された標本である可能性が高い.今回の企画展には貝化石の他,植物化石も展示された.植物化石の裏には「明治十九(1886)年八月二十五日播州明石郡名谷村,西垂水村ヲ距ル五十町ヨ」などと記されており,これも新島襄の日記(『新島襄全集5 日記・紀行編』,1984)の記述と一致する.新島が何のために化石を採集したかは全く不明である.なお,トリビア1で紹介した『本邦化石産地目録』(1884年出版)の「第三紀之部」には「上野國確永(碓氷)郡後閑村」に「貝石」が,「播磨國多可郡奥畑村」(現在の西脇市の南東部)に「木葉石」が産出することが記されている. 鉱物としては磁鉄鉱,黄銅鉱,方鉛鉱,赤鉄鉱,あるいは石炭も今回の企画展で展示された.採集地,採集年月日,採集者等不明である.石炭には興味を持っていたようであるし,『石炭之賛』と題する漢詩を創ったりしている.また,[1875年]4月3日には宇治を経て石山に行き,「石灰岩,この石はなかなか割れない」と記した.実際にハンマーでたたいた様子が想起される.

新島は地質学を大切と考える
新島は同志社英学校やハリス理化学校の教育課程に地質学を入れようとした.また,地質学関連の書籍など,自分の蔵書を学生が自由に使えるようにした.キリスト教の布教のために地方を巡るときにも,化石や鉱物採集にいそしんだ.1860年代の欧米では,地質学は重要な基礎学問であり,トリビア10の榎本武揚と同じように,新島も榎本も積極的に学んだのではないだろうか.幕末に欧米で学んだ武士たちは,地質学の基礎をもちろん体得していて,明治の時代を切り開いていくときに,資源は当時の国策と強力に結び付くという基本的な考え方にしたのではないだろうか.

文 献

  • 同志社社史資料センター・同志社大学地学研究会編,『新島襄が感じた地球』,2017年.
  • 同志社編,『新島襄自伝』,岩波文庫 2013年.新島襄,『新島襄全集5 日記・紀行編』,同朋社 1984年.島尾永康,1986,新島襄と科学,科学史研究,25(158),p83-88.
  • 島尾永康,1989,自然神学の時代--同志社英学校所蔵の自然神学書にみる(同志社・新島襄),キリスト教社会問題研究,(37),p67-84.
  • 八耳俊文,2001,『格物窮理問答』の成立と本文,青山学院女子短期大学総合文化研究所年報,127-144.
新島 襄の『地質構造図』(年不詳, 26.3×165cm, 同志社社史資料センター蔵)