トリビア学史 9 1893(明治26)年吾妻山爆発にともなう地質学者の殉難
矢島道子(日本大学文理学部)
写真 三浦宗次郎(佐藤,1985)より.西山惣吉の写真は見つかっていない. |
はじめに
火山はときに大爆発をし,人間の社会生活に甚大な被害を与 えることがある.1893年には会津の吾妻山が爆発し,地質学者 が殉難した.地質学が日本に芽生えてから初めて起きた事件だ ったので,東京地学協会報告や鉱山雑誌等によく記録された. 佐藤(1985)によく再録されているが,当時の新聞等を入手し たので,社会的な影響についても報告したい.
殉難の概要
1893年5月,会津の吾妻山が活動を始めた.翌月,地質調査 所所員の三浦宗次郎(技師)は西山惣吉(技手)を随行して現 地に入った.6月7日,二人が火口付近を調査中,大爆発が起き た.「三浦負傷,西山行方不明」の第一報に所員たちは,「三浦 氏すら負傷する場合 西山氏が無難なる謂れはあらじ,恐らく 悲惨なる死を遂げたるならん」(『東京朝日新聞』1893年6月15 日)と心配しているところに,果たして両名死亡の報が届いた. 火山弾の直撃を浴びたのだ.新聞が連日報じた.
三浦宗次郎
三浦宗次郎(1862 ‐ 1893)は群馬県沼田の生まれで,1884 (明治17)年,東京大学理学部地質学科を卒業した.そして静 岡県師範学校や佐賀県などで教員を務めた後,1887年地質調査 所に移った.卒業論文は『土佐東部の地質概要』で,そこに “radiolarian quartzite” という記述がある( 永井・白木, 2011).日本で最初の放散虫硅岩の記載である.地質調査所に 入所してからは20万分の1地質図幅「豊橋」「名古屋」「足助」 「男鹿島」「秋田」「本庄」などを精力的に作成した.死後出版 になったものは「吾妻山破裂調査概況」(三浦,1893a),「鳥海 山登山の記」(三浦,1893b),「荒川銅山」(三浦,1893c)など がある.
西山惣吉
西山惣吉は1855(安政2)年生まれで,履歴書にはただ「東 京府平民」と記されている(佐藤,1985).初めは東京大学で 雇われ,大学の失火事件のときの大活躍が認められ,1880(明治13)年に地質調査所の職階では「定夫」に採用された.1881 年には「定夫世話方」に昇進した.
雇,外国教師出張のときは常に之に随ひ行き同氏[惣吉]に 非ざれば殆んと事を弁せすと云ふ有様なりしかは習ふより慣 れよの譬へ見覚聞覚へ其道に通せしを以て遂に雇に登用されたり(著者不詳,1893)
ナウマンには,1875(明治8)年の最初のフォッサマグナ行 きから,従者として常に同行した.特に1882(明治15)年の白 根山の調査では大活躍をした.ナウマンは火口での試料採取を 試みたが,うまくいかず,西山惣吉の出番となった.
当時噴烟猛烈なりしにも拘はらず噴口及び熱湯の温度を検測 せんため絶壁を攀(よ)ぢ断崖を渡り辛うじて実験を終わり し後更に噴口壁を繞(めぐ)りて対崖に至り前に経過せし所 を望みたるに峭壁裂け岩角聳え今にも破裂墜落せんとする有 様なれば同行の人々はいづれも戦慄したり(著者不詳, 1893).
ナウマンは資料を採集することが出来,帰独後,白根山の論 文を書いた(Naumann ,1893).西山惣吉はナウマンの帰独後, 原田豊吉,そして三浦宗次郎の調査につきあった. 殉職した二人を悼んで肖像画が描かれた.故三浦を洋画家の 浅井忠が描き,故西山を描いたのは原田豊吉の弟,原田直次郎帝室博物館をへて,いま東京国立博物館に収 蔵されているという (佐藤,1985).
社会への影響
科学者の殉職が驚か れた時代で,報せは皇室にも達した.「破裂 の報一たび叡聞(えいぶん)に達するや爾来 (じらい)深く宸襟(しんきん)を惱ませられ」 (『東京朝日新聞』明治 25年6月15日) た天皇は,三浦技師の最後の 報告書を「最(いと) 細(こま)かに叡覧(えいらん)あらせら れ侍従方に向て斯(かヽ)る異変あるごとに朕へ奏聞せるは総て事後の報告のみなるが学術上の研究に依り山岳の破裂若しくは地震等の如き未発の前に於て樹木の枯疲禽獣魚虫の逃避等 何か前兆あるものにはあらずや」(『東京朝日新聞』明治25年6 月15日)と仰せられ,侍従長らは返答に窮し,地質調査所に質 問に行ったという.事件は歌舞伎「善悪両面吾妻山」を生み(『東京朝日新聞』 明治25年6月30日),志賀重昂も「日本の武人,戦場に斃れるる 者,古往今来何ぞ限らん,独り斯学のために倒れたる者」と 『日本風景論』で特記した(志賀,1894).
文 献