〜2018年日本地質学会創立125周年を記念して〜

 

トリビア学史 5   中村彌六(1855-1929):地質学に近しい林学者


矢島道子(日本大学文理学部)
 

写真 中村弥六(1930)より

2012年ころ,山田直利さん(元地質調査所)とナウマン(Edmund Naumann;1854-1927)の日本の地質調査所の業績の報告(1891)を翻訳した.それは地質に関する報告だけでなく,農学に関する業績も扱っている.地質調査所の初期にはリープシャー(Georg Liebscher;1853-1896) やフェスカ(Max Fesca;1845-1917)の率いる農学部門があったからだ.文中に気候学者としてハン(Julius Ferdinand von Hann;1839-1921)やライン(Johannes Justus Rein;1853-1918)のほかに,Nakamuraという日本人の名がでてくる.気候影響の基準に従って日本の森林構成に注目しているNakamura(1883)というドイツ語論文が紹介されている.このNakamuraは誰だろう.調べてみると,かなり地質学に近しい林学者ということがわかってきた.
 
中村彌六の略歴
中村彌六(1855-1929;写真)は長野県出身の林学者であると同時に政治家で,「義勇・破天荒の政治家」「日本林業の祖」と伝えられているので,その生涯は多く語られている(たとえば信濃毎日新聞社,1967;根岸ほか,2007).信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者・中村黒水の二男として生まれる.中村家は代々高遠藩の儒学者の家柄.1869(明治2)年,上京し安井息軒に学んだのち,1870(明治3)年に大学南校に入学し,1872(明治5)年に第一番中学生となる.『東京帝国大学五十年史』には中村の若いころの写真が掲載されている.その写真には,穂積陳重(1855-1926),杉浦重剛(1855-1924),志賀泰山(1854-1934)など錚々たる面々が並んでいる.1877(明治10)年に東京大学が創立される前には,大学南校,開成学校などの学校が生まれては消えていった.第一番中学校もその一つだった.
大学卒業後,1876(明治9)年に東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の教師になる.1877(明治10)年に大阪師範学校(現在の大阪教育大学)の教師に転じたが,1878(明治11)年に廃校になったため内務省地理局に入り,ここで林業の重要さに開眼する.1879(明治12)年ドイツに私費留学する.1880(明治13)年,現地で大蔵省御用掛に任命され,官費留学生としてミュンヘン大学で勉強できるようになった.中村はミュンヘン大学に入学した初めての東洋人と言われている.1882(明治15)年末に帰国後は一時大蔵省にいたが,1883(明治16)年に農商務省に入り,さらに新設の東京山林学校教授になる.1886(明治19)年に山林学校が東京農林学校になるとそこの教授になり,野外実習を積極的に行い,林学とは何かを日本人によく理解させた.1889(明治22)年に東京農林学校が東京帝国大学農科大学に昇格したのを機会に退職,農商務省に戻る.
1890(明治23)年に施行された第1回衆議院議員総選挙に,郷里の長野県第6区から立候補し当選する.ここから毀誉褒貶の多い政治家としての人生が始まる.第1次大隈内閣では進歩党系となり司法次官となる.1898(明治31)年のフィリピン独立革命でマリアノ・ポンセが支援を求めて訪日した際,日本軍から革命軍への武器払い下げ交渉に尽力した.しかし武器は輸送船「布引丸」の沈没によってフィリピンに届けることができなかった.残った武器を(フィリピン独立派の承認を得た上で)宮崎滔天が興中会による武装蜂起(恵州事件)に転用しようとした時,中村はそれを勝手に売り払い,かつ代金を着服したことが発覚し,多くの非難を浴びた.ただし中村自身は冤罪であることを訴えている.
「何ぞ独り参政の権利を10円以上の納税者のみに制限するの理あらんや……」との理由を付した,日本初の普通選挙案を憲政本党の降旗元太郎・河野広中,無所属の花井卓蔵らとともに衆議院に提出したものの,否決されたこともあった.さらに,1921(大正10)年11月4日,中岡艮一が当時の首相原 敬を暗殺した際,犯行2日後の東京日日新聞(現毎日新聞)に「艮一の大叔父中村彌六氏談」という見出しでコメントが載ったこともあった.
ふたつほど中村と地質学の関係を示す事柄をあげてみる.
 
大日本山林会
東京朝日新聞1889(明治22)年2月3日の朝刊記事に下記の記事がある.
大日本山林会 本月28日より来月2日迄3日間木挽町厚生館に於いて大日本山林会大集会を開く筈なり.当日の問題は森林に関する気候(寒晴風,雨等)及び土性説にて,演説は,日本の気候(富士谷孝雄),林道及び木材運搬法(志賀泰山),造林法と材質の関係(農林学校教師独逸人マイエル),民林に対し政府が干渉すべき程度(中村彌六),眠林を覚ますの時果たして至るや(高橋琢也),国土保安林の説(松本収),演題未定(高島得三)同(農林学校教師独逸人グラースマン)の諸氏なり.
大日本山林会は1882(明治15)年に創設された林業界の団体で,現在も大日本農会,大日本水産会とともに赤坂の三会堂ビルにある,日本の第1次産業牽引団体である.新聞記事によれば,大日本山林会の講演会で当時の林学者たちが並んでいる.志賀は中村と終生の友人,マイエルやグラースマンはミュンヘン大学の同窓である.発表者の中に,林学者に交じって富士谷孝雄や高島得三などの地質学者の名前がある.富士谷は1882-1884(明治15-17)年東京山林学校で嘱託をしていたし,高島は内務省地理局時代からの仲間であったのだろう.
 
磐梯の弥六沼
磐梯山ジオパークの裏磐梯湖沼群地域の入り口に弥六沼がある.弥六沼の弥六は中村彌六への献名である.1888(明治21)年磐梯山の噴火によって桧原湖・小野川湖・秋元湖・五色沼といった大小100余りの湖沼群が誕生した.会津若松市の遠藤十次郎(現夢1864-1934)は1907(明治40)年頃,官有地借地の権利を譲り受け,荒地に植林を開始した.その頃,中村彌六と出会った.中村は,荒地に赤松が適していることを遠藤にすすめ,遠藤は弥六沼の西から中の湯までの山麓に13万本の赤松を植林した.弥六沼の名は中村彌六氏への感謝をこめて,遠藤が名付けた.
 
文 献
信濃毎日新聞社,1967,信州の人脈(下).信濃毎日新聞社.
東京帝国大学,1932,東京帝国大学五十年史・上冊.東京帝国大学.
Nakamura, Y., 1883, Über den anatomischen Bau des Holzes der wichtigsten japanischen Coniferen. Untersuchungen aus dem forstbotanischen Institut zu München, 3, 17-45.
中村弥六(著)川瀬善太郎(編),1930,林業回顧録.大日本山林会.
Naumann, E., 1891, Neuere Arbeiten der kaiserlich japanischen Geologischen Reichsanstalt. Das Ausland, Jahrgang, 64, 18, 356-360; 19, 372-378.
山田直利・矢島道子,2013a,E.ナウマン著「大日本帝国地質調査所の最近の業績」邦訳.地学雑誌,122(3),521-534.
根岸賢一郎ほか,2007,千葉演習林沿革史資料(6):松野先生記念碑と林学教育事始めの人々,演習林,46号,57-121.