東海道五十三次と地震・津波・噴火

石渡 明(東北大学東北アジア研究センター)


江戸時代のはじめ、参勤交代制の開始(1635年)とともに整備された東海道五十三次は、橋のない川や厳しい関所などの問題はあったが、当時としては世界で最も安全・快適に旅行できるハイウェー・システムであった。しかし、この道はいくつかの場所で海岸沿いを通り(図1)、そこではしばしば自然災害に襲われてきた。この地域は相模トラフや南海トラフのプレート境界に沿っていて地震・津波の被害があり、また多くの台風が直撃して高潮、洪水、山崩れなどの被害があった。そして巨大な活火山である富士山がこの街道の間近にそびえている。ここでは、東海道の宿駅の歴史を概観して、この地域の自然災害について一考する。
 

図1.東海道五十三次の地図。本文中に出てくる宿駅(●印)や地名、プレート境界の位置も示した。
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吉原宿は現在の静岡県富士市中心部にあったが、この場所に落ち着くまでに、災害によって何回も場所を変えた(馬頭町広重美術館, 2002)。ここは駿河湾の最奥に位置し、高潮の被害を受けやすい。宿駅はもともと海岸沿いにあったが、1639(寛永16)年の高潮で壊滅的被害を受けて山側へ移転したものの、1680(延宝8)年に再び高潮に見舞われ、さらに内陸側ヘ1 kmほど移動した。これらは地震津波ではなく、台風による高潮と考えられている。この移転によって、街道は大きく内陸側へ迂回することになった。江戸から京都に向かう東海道沿いでは、富士山は常に右手に見えるが、この迂回路だけは富士山が左側に見えるので、「左富士」と呼ばれて珍しがられた。

由比(由井)宿は吉原宿の2つ先にあり、そのすぐ南に東海道一の難所「薩埵(さった)峠」がある。もともと街道はこの山の下の海岸を通っていたが、時々波をかぶる危険な道だったため、明暦年間(1655-57)に徳川幕府が朝鮮通信使来朝に合わせて薩埵山を切り開き、峠道を作った。それ以後、海沿いの道は使われなくなったが、幕末の安政元年(1854)の地震で海岸が隆起し、以後は再び街道が海岸沿いを通るようになった。現在もJR東海道線、国道1号線、東名高速(これは海上の高架)が海岸沿いを通っているが、危険な場所であることに変わりはない。なお、この安政東海地震では、富士川の東側(吉原や伊豆方面)は地震の揺れによる被害が少なかったが、西側(断層の上盤側)の蒲原、由比、奥津などでは多数の死者が出た。また、駿河湾周辺では6 m程度の津波があり、これによる死者も多かった(つじ, 1992)。

浜名湖は明応7年(1498)の南海トラフ地震で海寄りの砂州が切れて遠州灘とつながってしまった。切れた砂州を今切(いまぎれ)と呼び、舞阪と新居(荒井)を結ぶ海上1 kmの舟渡しを今切の渡しと言った。砂州が切れたのは永正7年(1510)という説もある。大地震の約10年後に海底地すべりが発生して海岸の土地が失われた例としては、1964年新潟地震の震源地に近い粟島で、1974年に起きた地すべりがある。

白須賀宿は新居宿の次にあり、元々は海岸沿いにあったが、宝永7年(1707)の南海トラフ地震と津波により壊滅したため、汐見坂の上に移った。この地域の堆積物調査によると、1498年、1605年、1707年、1854年の津波堆積物が同定され、1680年または1699年の高潮によると思われる堆積物も確認されている(小松原ほか,2006)。伊勢街道に沿う三重県の津も、もとは安濃津と呼ばれる栄えた港だったが、1494年と1498年の2回の地震で市街や松原が海中に没してしまい、内陸側の現在の場所に移った。一方、1688年に刊行された浅井了意の東海道名所記(東洋文庫)によると、鈴鹿峠南側の坂下宿は、慶安3年(1650)の大雨による山崩れで宿場が埋まり多数の死者が出たため、その後1 kmほど下流側に移った。

さて、富士山は葛飾北斎の富岳三十六景(1831年頃出版)や安藤広重の東海道五十三次(1833年出版)によく描かれているが、この画家たちは富士山の地形的特徴をよく捉えている。広重の「原」の富士には右側の斜面に宝永火口の高まりが描かれ、手前の浸食が進んだ愛鷹山との地形の対比が強調されている。北斎の甲州三島越の富士は西側斜面を東側よりも急傾斜に描き、この成層火山の東西方向の非対称性をよく表現している。これらはいずれも1707年の宝永噴火から100年以上後に描かれたもので、現在の富士山の姿とほとんど変わりない。この噴火は太陽暦の12月16日に始まり、翌年1月初めまで続いた。火山灰が火口から東方へ運ばれ、小田原付近で20〜30 cm程度、横浜付近で15〜20 cm程度、江戸でも2〜3 cm程度堆積した(宮地・小山, 2007)。江戸では粒径数mm以下の火山灰で、これにより呼吸器疾患が増加したという記録があるが、小田原付近では10〜20 mmの火山礫が降った。最初は白〜灰色のデイサイト質の灰が降り、次第に黒い玄武岩質の灰に変わった。富士山東麓では火山灰や火山礫が数メートルも堆積し、家が潰れたり埋まったりしたほか、広大な農地が灰をかぶった。この火山灰は雨が降るたびに下流に流れ出し、洪水を引き起こし、数年にわたって飢饉を生じた。人口が半分以下になった村も多く、酒匂川沿いの足柄平野のある村では、その後11年間も年貢が免除された。二宮金次郎はこの噴火の約80年後に足柄上郡栢山村に生まれたが、その頃もまだ洪水が頻発し、彼の家の田畑も流されるような状況だった。富士山噴火がこの地域に課した試練が、その後二宮尊徳と呼ばれる人格者を育て上げたとも言える。東海道の酒匂川は、この噴火以前は船で渡していたが、以後は歩いて渡る渡渉制になった(宇佐美, 1998)。十返舎一九の東海道中膝栗毛(岩波文庫)は1801年に刊行されたので、弥次喜多も歩いて渡ったはずである(その夜に小田原宿で五右衛門風呂に下駄履きで入って釜を壊した)。なお、朝鮮、琉球、オランダなどの外国使節が通行するときは、周辺の村から多数の船を調達して船橋を作った。

 以上のように、東海道は17世紀に街道として整備されてからも様々な自然災害をこうむり、その影響を受けて変化しながら日本の交通の動脈としての役割を果たし続けてきた。明治以後も、1891年の濃尾地震で岐阜の東海道本線長良川鉄橋が落下したり、1923年の関東大地震の時に根府川駅で列車が山崩れに巻き込まれて駅ごと海中に滑落したり、1930年の北伊豆地震により掘削工事中の丹那トンネルが断層で大きく変位したりした。このトンネルは1916年から掘り始めたが、1934年の完成までの間に2回の大地震を経験したことになる(服部, 2013)。戦時中の東南海地震(1944年12月7日)では東海地域から紀伊半島にかけて最大9 mの津波があり、1200人以上の死者が出て、東海地域の軍需工場も大きな被害を受けた。日本政府は被害を隠したが、米国は地震の場所や規模を把握しており、その6日後に米軍が名古屋を空爆した。また、戦後の1959年の伊勢湾台風では、高潮により名古屋を中心に愛知・三重などで5,000人以上の死者が出た。そして、JR東海道本線の終点である神戸でも、1995年の阪神大震災ではこれを上回る死者が出て、列車の脱線や新幹線・高速道路の高架の崩落などがあった。

 2011年の東日本大震災の経験から言えることは、広域的に交通の代替経路を複数確保することの重要性である。被災地からの避難、被災地への物資や人員の供給のために、日頃から代替路線を整備し、日常的に活用することが急務である。「備えがないことはできない」ということを肝に銘じるべきである。そして、これを実行するためには、地域の災害の歴史を文献から学び、自分のこととして地域の防災・減災を考えることが第一歩である。

 

【引用文献】

馬頭町広重美術館 (2002) 江戸の旅東海道五拾三次展図録。同館。151 p.

服部 仁 (2013) 丹那断層と丹那トンネル難工事と二つの地震。地質学会News, 16(3), 12-13; 16(4), 17-18; 16(5), 17-18.

小松原純子・藤原 治・高田圭太・澤井祐紀・タン・ティン・アオン・鎌滝孝信 (2006) 沿岸低地堆積物に記録された歴史時代の津波と高潮:南海トラフ沿岸の例。活断層・古地震研究報告, 6, 107-122.

宮地直道・小山真人 (2007) 富士火山1707年噴火(宝永噴火)についての最近の研究成果。荒牧重雄・藤井敏嗣・中田節也・宮地直道編「富士火山」。山梨県環境科学研究所。p. 339-348.

つじよしのぶ (1992) 富士山の噴火:万葉集から現代まで。築地書館。261 p.

宇佐美ミサ子 (1998) 近世助郷制の研究—西相模地域を中心に—。法政大学出版局。373 p.

 

 

(2013.6.26)

 

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追記:笠間友博会員から左富士は南湖(茅ヶ崎)
にもあったというご指摘をいただいた。
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