丹那断層と丹那トンネル難工事と二つの大地震

—その3: トンネル内丹那断層の立体像・二大地震のとき・将来は?—

服部 仁

第5図 丹那断層付近の先進導坑・本線・水抜坑・立坑・水抜きボーリング掘進状況.
坑奥切羽から松葉のように放射状に延びた線は水抜きボーリングであり,クラリヤス式試錐機およびデンバー式削岩機が使用された。服部(2006)の図7を複製. 原図:鐡道省熱海建設事務所(1933), 187ページを反転加筆浄書.
(※拡大は図をクリック)


6.トンネル坑内における丹那断層の立体像
  丹那断層は,丹那盆地の地表において,地割れが雁行状にできていて,道路や畦道を左横ずれさせながら,その分布幅は数mから10mほどで,ほぼ直線状に南北性に延びている状況が北伊豆地震の現地調査結果から明らかになっている(その1:第3図).この分布状況は,坑内で確認された丹那断層の実態と著しく異なっている.坑内の断層は,幅が20m以上で,周辺に破砕帯を伴うなど40mに及ぶ広い範囲に断層角礫帯をなし,南側第三水抜坑から北側大迂回水抜坑まで北西−南東方向に約300m延びていた.丹那断層の北西端部分は,紙のように薄くなって尖滅状況にあった(第5図).トンネル内で確認されている丹那断層の立体像は,地表における南北性の地割れ状の丹那断層と規模と方向を見ても,とても同一の断層(その1:第2図)とは想像できないであろう.北側大迂回水抜坑は,北伊豆地震発生後に掘削されており,断層周辺の岩石は堅固であり,1932年6月22日断層鏡面を撮影した写真が残っており,湧水量約28 ℓ/secが記録されている(鐡道省熱海建設事務所, 1936, p.174対面).

7.水抜き工法の三位一体計画
  西口1,494m(4,900呎)付近で,水平ダイヤモンドボーリングの試錐は,スウェーデン人のエリックソンさんやノードヤークさんの指導を受けていた.柳川君がダイヤモンド埋込作業など補修技術を会得し,以降日本人だけでもやれるようになった.丹那盆地のA,B,C,Dボーリング(その1:第1図)を始めた動機は,
  (1)トンネル内の地下水を立坑からポンプアップする,という奇抜とも思える様な着想が,当時,建設局の太田工事課長から発案され,具体的な検討を大学新卒の河西,佐藤,渡辺君などに研究課題として与えたのが動機となり,次いで
  (2)同時にトンネルレベルまでの地質を調査するためであった.
  4本のボーリングの内,C号ボーリングは丹那盆地東側を走る丹那断層に至近のところに位置していた.このボーリングの地質柱状図を見ると,トンネルから40m位高い地点に厚さ約18mの堅固な安山岩溶岩層がある.短時間にこの高さまで水位を下げる事ができるので,北側水抜坑においてこの案を実行して水を絞りつつ,セメント注入により断層と悪地質を切抜けことに成功した.
  地下水位低下のため,①南側と北側水抜坑および切羽から砲列を敷いたような多数の水平排水ボーリング,②立坑からの上部水抜坑,および③最後に突破する坑道のセメント注入を行ったが,これらを地下水位低下法の三位一体計画の仕事と呼んでいる(鐡道省熱海建設事務所, 1933, 1936).

8. 丹那盆地の渇水問題とトンネル内の地下水
  丹那地方は豊富な水に恵まれた所で,溪間には泉が湧いて山葵が栽培せられ,農家はその水を引いて飲料水としていた.牧畜も行われ水車は回り,水田は水の多いのに苦しんだ程であった.この豊富であった水がだんだん減ることに,人々が氣づきだしたのは関東大地震後の1924年頃で,盆地の東部畑区の細井澤から次第に大久保澤,檜澤と広がっていった.一方,トンネル坑内の湧水は工事進行とともに増加して,三島口ではおびただしい量の水が出てきて,トンネル工事のため盆地の水が下に吸い取られるのではないか,と疑い始められた.
  工事関係者は,これまで経験したこともない程の膨大な量の湧水に驚きながらも,地下水に考えが及ばなかった.農民はトンネルで水を抜くから丹那の水が減って行くのは当たり前,と主張し,善後策を求めて建設事務所へたびたび請願にきた.役所の方でも,関東地震直後のことであり地下に変動があって水の通路が変ったのかも知れないし,また1924年から続いて3年ほど降雨量の少なかったこともあり,湧水が減ったのではないか,などと因果関係についてはまだ半信半疑であった.
  渇水はますますひどくなり,坑内からの湧水は激増して,1926年になると,盆地の渇水はトンネルのせいではないなど,ともう否定できなくなった.翌年から渇水による不作の見舞金を出すこと,飲料水の缺乏した所には水道を引いて,一時的沈静化を計るとともに,水収支関係をつきとめるため徹底的に調査することとなった.丹那盆地内外の10か所に雨量計を据えつけ,また柿澤川,谷下川,冷川,和田川,加茂川,千歳川の各河川に堰を設けて毎日流量を観測した.各河川は互いに接近し,地形・林野の状態,氣象の関係など大体似ているのに,流域面積一平方里あたりの川の流量は非常に違っていた.千歳川や加茂川は,それまで日本各所で計った数字と大差がないのに,著しく渇水した柿澤川や谷下川,和田川などでは特別に少なかった.降雨量と川水の流量の割合でも同じように渇水地域では少なくて,雨の大部分は地下に滲みこんでいること,およびこの滲透量は年とともに多くなったことが確認された.
  工事が進行するにつれて渇水区域も広がっていった.各河川の水量が減るにしたがって,灌漑用水が得られず,下流の広大な区域では作付けのできないところが多くなり,農民達が役所に押しかける大騒ぎに発展した.1933年度になって,静岡県庁の協力により酪農業の振興策を含めて水対策は解決され,被害民もようやく安堵した(鐡道省熱海建設事務所, 1933).
  この渇水事件から、多くの知識を得ることができ、新たな知恵が生まれて水文学に発展した,といわれている.
今日では,トンネル掘進の場合のみならず,地下構造物を造る時,地下水と地表水に大影響を与えないよう愼重に工事が管理されている.丹那盆地における80年前の渇水問題は,多くの貴重な試練を与えており,それらの経験から環境保全対策の基本を習得したことは史実であり,長く記憶にとどめることであろう.

9. 丹那トンネル内における関東大地震と北伊豆地震の影響
  1923年関東大地震の時,三島口は1,509m(4,950呎)の断層を掘っていて,電気は止まったが,坑外では宿舎の破損はあったものの倒壊などの被害も死傷者もでなかった.三島口近くの大場,韮山集落等は家が大半潰され,圧死者も多数でて大騒ぎであった.トンネル内ではゴーという山鳴りが聞えたので,それ崩壊だと皆あわてて逃げ出した.しかし,現場では別に異状もなく,電線が揺れるのを見て始めて地震だと氣がついた位であった.
  1930年北伊豆地震の時は,震源に近かったためか山鳴りや上下動を感じた.三島口坑内では,3,353m(11,000呎)辺りが崩壊して,ずり出しの4人と蓄電車の運転手1人が埋没された.直に救助作業にかかり,運転手とずり出しの1人は救い出されたが,他の3人は4日後に死亡が確認された.他の部分では,853m(2,800呎)辺りではトンネルを横断して亀裂を生じ,2,195m(7,200呎)から2,316m(7,600呎)辺りにかけては側壁に縦に長い亀裂が入った.また,3,048m(10,000呎) の断層を境に,奥の方は18cm(7吋)も基盤が下り,側壁コンクリートに割目ができた.3,261m(10,700呎) 辺りから奥61m(200呎)までは,切り広げが済みコンクリート巻き直前で,トンネル工事中で一番不安定な場所であった.ここが地震で激しく揺れて,先づ支保工が倒れ,次いで支えていた土砂がその上に崩れ落ちてトンネルの大部分を覆い,上部は高くまでえぐられて洞穴となり,奥の崩れない部分に達していた.
  崩壊個所を避けて水抜坑を廻って,更に奥の方では底設導坑は切羽から土砂が噴いたらしく,約30m(100呎)位の間土砂が堆積していたが,支保工には別状はなかった.南側第二水抜坑に入って見ると,そこの切羽は地質が悪かったので作業を中止し,切羽に地上で見るように松丸太を充填して土留としていた.先方の地質を調べるため水平に61m(200呎)ボーリングを行い,そのためのケーシングチュウブを松丸太の間に入れてあった.驚いたことに,松丸太もケーシングチュウブも正面を向いていたはずなのに,一様に45度位南に向きを変えていた.
  南側第三水抜坑に入って見ると,ここも鉄製支保工が途中で切断されて,正面にはきれいな断層鏡面が現われ,ほぼ水平に條痕がついていた.この断層を境にして東西の地塊が運動し,西の方が南に2.4m(8呎) 位ずったことがわかった.
  熱海口では2,743m(9,000呎)の断層が動いて,断層の方向に亀裂が入った位である.
  丹那トンネルは,1918年から16年間の工事中に2回も激震の洗礼を受けたことになる.激震によって少なくとも,その時までにできていたコンクリート巻部分に少々の亀裂が生じた程度で,トンネルがつぶれる様なことはないとわかった.大地震後,東京帝國大學地震研究所が丹那盆地の地表とその真下の水抜坑に地震計を据えつけて計ったところ,同じ地震でも,地下では地表の3分の1位しか震動しないことがわかった(鐡道省熱海建設事務所, 1933, 1936).

10.もし、再び大地震に襲われたら
  以下の随想文は,ウイットあふれる解説文になっているので,参考までに再録する(鐡道省熱海建設事務所, 1933).
  “それでは,三島口3,658m(12,000呎)の丹那大断層がもう一度2.4m(8呎)動いたらどうなるか,とよく聞かれます.その時には綺麗に8呎の食違いができるかも知れませんし,または崩壊して通れなくなるかも知れません.その時,ちょうど汽車がそこを通っておれば,もちろん脱線転覆してたくさんの死傷者をだすことでしょう.しかし,そんな大地震は滅多にあるものではありません.恐らく,このトンネルの経済的利用価値のある間にはもう起らないでしょう.たとえ起ったとしても,その悪い箇所を汽車が通り抜ける時間は数秒に過ぎないのです.一生に一度の数秒間の時間を,ちょうどそこに居合はせて災難に出遇ってもよくよくの不運とあきらめて下さい.汽車の走る道ではそんな所より,切取りや築堤や橋梁等,大地震の時,危い箇所がまだたくさんあります.いやそれよりも危険率からいったら,東京の市街で圓タクに乗る方がさらに恐しいことです.そんなことは氣にかけず,この「丹那トンネルの話」でも読みながら,安心してトンネルを通ってください.”

 

【引用文献】

服部 仁,2006,丹那トンネルと新丹那トンネル.鹿島技術研究所編,鉄道の鹿島−『技術の鹿島』そのDNAを訪ねて 第2集,170-182.

鐡道省熱海建設事務所,1933, 丹那トンネルの話.224p+序文3p+目次4p. (復刻版,1995)

鐡道省熱海建設事務所,1936, 丹那隧道工事誌.602p.

 

【参考資料】

鹿島社内報, 1961, 建設進む新丹那トンネル, 35 p.

菅野忠五郎編, 1963, 鹿島組史料の内,第三十六章 丹那隧道工事, 107-121.

Kuno, H.,1951, Geology of Hakone Volcano and adjacent areas. Part 鵺. Jour.Fac.Sci. Univ.Tokyo, Sec.鵺, 7, 351-402. (カラー地質図:BY HISASHI KUNO,1938)

久野 久, 1952, 七万五千分の一地質図幅『熱海』および同説明書、地質調査所, 153p.

松田時彦, 1972, 1930年北伊豆地震の地震断層, 伊豆半島,東海大学出版会,73-93.

静岡幹線工事局, 1965, 東海道新幹線工事誌, 587p.

田方郡町村会・教育長会・校長会・教育研究会, 1981, 昭和5年の北伊豆地震に学ぶ, 16p.

吉村 昭, 1990, 闇を裂く道, 文春文庫, 430p.

 

 

(2013.3.5)