丹那断層と丹那トンネル難工事と二つの大地震

—その2: トンネルルート選定・地質調査・断層からの大湧水—

服部 仁


1.東海道線(現JR御殿場線)からトンネルルートの東海道本線へ
  熱海から丹那トンネル経由で三島へ抜けるまで,東海道線は現在のJR御殿場線を通っていた.当時,降雨量が多いと毎年のように線路と並行する鮎澤川が氾濫し,堤防の決壊,山崩れが起こり,しばしば不通になった.1か月以上も不通状態が続くこともあった.その上,富士山麓の御殿場を中心に上り下りともに40分の1の急勾配が長いため,貨物列車が蒸気機関車三台つけて牽引されても,あえぎ,あえぎ走っていた.丹那トンネル完成前,1934年末までの日本の幹線鉄道は,東海道メガロポリスを支える大動脈の役割を果たしてはいなかった.
  御殿場線の改良策,小田原と沼津を直結する芦ノ湖の下を通す第一案,熱海と函南を通す熱海線など計8線路が,地形測量とともに検討された.最終案は,熱海線建設(丹那山トンネル:当時の名称で,1922年に山を削除)であった.丹那トンネルは,鐡道院にとって中央線笹子トンネルなどの規模を超える未経験の大断面・複線型の長い山岳トンネルであり,大国家事業であった.

2.不十分な事前調査
  建設当初の所管局長古川阪次郎博士は,若い時分中央線笹子トンネルを手懸けた技師で,トンネルの事は自分が日本の第一人者だという確信を持っていた.丹那トンネルもこの局長確信の下に出発したが,起工後工事は多くの困難に出逢い,事故は続出,死傷者がでた.工事中止をめぐり,議会問題化し貴衆両院議員までが視察にでかけた.工事担当者から,古川博士が自信の余り地質の調査研究もせず着工したためだった,との意見もでた.
  西園寺公望公が古川阪次郎局長を呼び,その頃,来日していた独逸人のトンネル技師に相談し,よく調査してもらうよう勧めた.それにもかかわらず,古川博士はトンネルには自信があったので,自分の調査結果からその必要を認めず実行しなかった(新井,1954).伊豆半島にはすでにたくさんの金銀鉱山が開発されていて,類似の地質について調査研究がなかったわけではない.しかし,丹那トンネルのルートに関しては,事前調査が十分でなく,その上,地質学界権威の間で見解がまとまらなかった.
  10数年を経て貫通を迎えたとき,古川博士は丹那の始めから貫通まで終始,鉄道技術家として活躍されており,77才で元鐡道院副総裁として,貫通にも立ち会った.1933年6月19日午前11時30分,三土(みつち)忠造(ちうぞう)鉄道大臣(三土大臣の次男が三土知芳氏,1947.9〜1953.10地質調査所所長)の卓上のボタン指示で貫通発破が行われた.貫通確認の直後に,古川阪次郎翁はしゃがれ声で,トンネル内から三土大臣に「計画者の一人として,このトンネルの完成には責任を感じている.貫通に立会い,衷心からお喜びを申し上げます」と電話で感慨深い祝辞を述べた(青木,1954).

第4図:新丹那トンネル地質断面図.下図の平面図には水抜坑と主な断層の位置を示した.
服部(2006)の図3を複製. 地質断面図は久野(1962)の第1図を浄書・加筆し,丹那トンネル難工事箇所に★印を追記.平面図は鐡道省熱海建設事務所(1936)の第246図を使用.
(※拡大は図をクリック)

 
3.久野 久の貢献
  事前の地質調査が十分でなかったこと,さらに大事故が続発したため,1923年,東京帝國大學理學部地質學科卒業の渡邊貫,廣田孝一,佐伯謙吉の三理学士が初めて地質技術者として鐡道省(鐡道院から1920年鐡道省へ)に採用された.地質の立場から,工事の進歩を助けた一面 (鐡道省熱海建設事務所,1933)はあるものの,全体の地質状況と火山岩の諸性質を理解するまでには至らず,事故発生の事後処置に追われた.約10年後以降の久野 久による研究成果を待たねばならなかった.
  久野は,1931年から箱根・伊豆半島の地質・岩石・鉱物の卒業研究(東京帝國大學 地質學教室)を始めた.貫通前後の旧丹那トンネル中央部の1.5kmにしばしば入坑して,側壁の岩石露出面を観察し,さらに,旧丹那トンネルの地質断面図を作製するため,地表の踏査は少なくとも実動100日を費やしている.1939年助教授に昇任後,1941年7月徴用されて満州の軍務につき,1946年抑留地から帰国して間もなく,戦時中に掘られた新丹那トンネル部分を調査し始めた.東海道新幹線の新トンネルとして,1959年9月工事再開後はほとんど毎月1回トンネル坑内に入って調査を行い(一時:国鉄嘱託),トンネル全域にわたる地質断面図を改定するとともに,火山岩の種類と分布,火山岩のできかた,空洞・空隙の存在形態,断層の精査,採集岩石試料の岩石学的研究を続けた.また,坑内で工事関係者に種々解説されている(太田編, 1965 ).
  詳細な地表および坑内地質調査,持ち帰った採取試料の顕微鏡観察,火山岩の成因(水中自破砕溶岩など),変質状況などを把握し,箱根・伊豆を中心とした立派な研究業績を内外に公表した.日本以外の火山および火山岩を含め,岩石学的・鉱物学的研究の世界第一人者と認められようになった.1962年9月20日の新丹那トンネル貫通直前に,「旧丹那トンネルと新丹那トンネル」と題する地質学的論文を公表した(久野, 1962).1969年7月21日,アポロ11号の月面着陸と岩石試料採取についてのNHKテレビ中継の解説を務めたが,画面では病魔に侵されて痩せ細った顔が映されていた.その直後,8月6日胃がんのために逝去された.東京大学教授定年退職半年あまり前のことであった.国内誌よりも海外の著名な学会誌の方が多く,久野 久のあまりにも早い逝去を惜しみ追悼文を載せた.久野教授の学問的貢献はいうに及ばず,新丹那トンネル工事の円滑な進行に計り知れない影響を与えた.他の多くのトンネル工事において,久野教授を超えるような助言・指導を行った地質学者はおそらく他にはいないであろう(第4図).

4.最初の事故
  26才の青年号令(現在の現場主任に相当)として幸い生き残り,後に参議院議員として2年半務めた門屋盛一氏の回顧録(門屋, 1954)から述べる.熱海口の坑口から約300m位入ったところで大事故が起こった.事故箇所は,その当時でも微温湯位の温泉が出ていた.地熱による地質の変化,それから小さな断層鏡面があった.その断層は大体トンネルに向って左手から右手の方に45度で走り,断層の幅は約6mである.その断層を取った折にできた,1921年4月1日,午後4時20分頃の事故である.
  助かった原因:33名が遭難し,16名は崩落事故の真下にあって圧死したが,そこより奥の先進導坑で働いていた17名は閉じ込められて,7日後の4月8日の午後11時に救助された.その当時は単線型のトンネル以外の経験がなく,延長約8kmの大隧道で,しかも箱根火山地帯の難しい地質の中を掘削して行くというので当時の鉄道省としても最も精鋭の技術陣を配した.しかし,私は19才の時から2年半程長崎沖の三菱の端島炭坑,崎戸炭坑等で働いていたので,炭坑の坑内設備(坑内の電燈,動力線,下水,電話も装備済)が非常によかったことを知っていた.当初の丹那トンネル工事では,まだカンテラをつけて坑内に入り電燈の設備がなく,1.6km程先の導坑には電話もなく,一寸の連絡でも徒歩で奥から出なければならず,従来の工法を一歩も出ていなかった.
  下水の事を,飯田清太さんと私,門屋盛一が必死になって頼んだ.その結果,事故の起る数日前,確か2寸厚みの板で深さ1尺,幅2尺の下水が出来ていた.そのお陰で我々が溺死を免れたのです.当時毎秒1.5立方尺(=42 ℓ/sec)位の水が出ていたので,我々は三昼夜位でガスで窒息するか,あるいは溺死していた筈であった.我々の願いを,幸いにも竹股技師が聴き入れ,いいと思うことを直ぐやってくれたので助かった訳である.たまたま4月1日は朔日で公休日のため,導坑と山の悪いところでコンクリート工を進め,他は全部休んでいた.従事員が余計入っていなかったのは不幸中の幸いであった.また,当時建設事務所の富田保一郎所長は勅任官(天皇の御璽を捺した勅書によって任命される.各省次官や参事官,府県知事,帝国大学教授,陸海軍中将少将など高等官1〜2等に相当)であり,とても偉い所長であったが,1921年当時,26才の一介の青年号令の要望を所長が認め,激励されたのである.
  丹那トンネルの熱海口において,鉄道工業の丁場にストライキがあったことはあまり知られていない.原因は,崩壊事故の直後,救助坑の位置について鉄道当局の対策への不満からであった.この崩壊事故と同時に,その時の当番の宗像という男が,トンネルの一番真中の上部から救助坑を開けたいと願い出た.しかし,鉄道当局の意向は,上は危いとの事で,両方の側壁コンクリートの生きているところ,および底設から入れとの指示であった.ところが,2日遅れて応援に来た三島口施工の鹿島組親方,伊沢京七氏がかけつけて上から行かなければいかんといって,宗像達が先に申し出た処から取りかかり,その上の救助坑から我々の救出に成功した.それでストライキの言い分は,なぜ俺達の言い分を聴いてくれなかったか,という点にあった.

5.断層や大湧水の観察記録と理解・原因究明
  断層そのものについての智識は,その当時不十分であった.三島口工区 1,509m(四千九百五十呎)における1年あまりの経験が,その後のトンネル技術者の断層および地質に対する智識を非常に進歩させた.大きな玉石が,方々の川で見受ける様な丸い玉石であって,断層の中にあるものとは考えられなかったからである.また,砂も多量流出していたので,砂や玉石の河床の層にぶつかり,多量の地下水のために流れ出したものだ,と考えられそうな地質であった.しかし,実際は断層であり,玉石は断層角礫であった.断層角礫とは堅岩が断層作用によってグザグザに砕けた岩片をいうのであるが,場合によってはグザグザにならず種々の大きさに割れ,これが断層作用によって回転し,川の底をころがったと同じ様に丸くなるのである.だから,玉石は何も水に流されて出きたものとは限らず,断層作用によってできる玉石もあるのである.断層の性質は一様で無く,種々の変化があるから断層なるものを熟知する事はなかなか難しい(石川, 1954).
  東京帝國大學工學部鉱山學科卒業後,石川九五技師が西口大竹詰所に着任したのは,三島口1,509m付近の大崩壊事故が収拾され,断層の裏側に廻り坑奥を掘削していた1924年8月である.以降,1934年12月1日の熱海線開通まで満10年以上在勤した珍しい技術者である.石川は,10年間におもな大難工事に立ち会っていて,新工法を試行するとともに,多くの事故について的確な観察記録を残している.
 

【文献】

服部 仁,1996,復刊紹介「丹那トンネルの話」.地質雑,102,143-144.

服部 仁,2006,丹那トンネルと新丹那トンネル.鹿島技術研究所編,鉄道の鹿島−『技術の鹿島』そのDNAを訪ねて 第2集,170-182.

鹿島技術研究所,2006, 鉄道の鹿島−『技術の鹿島』そのDNAを訪ねて第2集, 270p.
内,
  服部 仁,2006, 丹那トンネルと新丹那トンネル, 170—182.

久野 久, 1962, 旧丹那トンネルと新丹那トンネル,科学, 32, 397—401.

日本国有鉄道新橋工事々務所編, 1954, 開通二十周年記念 随筆 丹那とんねる, 作品社, 333p.
内,
  新井堯爾, 驛長の頃から, 235—241.
  青木槐三, 記者の眼で見た丹那隧道, 254—272.
  門屋盛一, 生埋日記, 108—128.
  石川九五, 隧道のスピード, 11—35.

太田善雄編, 1965 , 新丹那トンネル工事の記録, 鹿島, 131 p.

鐡道省熱海建設事務所,1933, 丹那トンネルの話,224p.+序文3p.+目次4p.;復刻版,1995.

鐡道省熱海建設事務所, 1936, 丹那隧道工事誌, 602p.

 

その3に続く

 

(2013.3.5)