三陸津波の痕跡と防災〜田老の防潮堤を見学して〜


川村喜一郎(財団法人深田地質研究所)・南澤智美(日本海洋事業)


写真1 三陸鉄道リアス線の切符と駅に置いてあるスタンプ.上のスタンプには田老で見られる三王岩が描かれている.

写真2 田老に張り巡らされた防潮堤.高さは約10メートル,総延長は2.4キロにも達する.


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海洋研究開発機構の深海調査研究船「かいれい」によるKR08-10日本海溝航海が8月18日〜9月11日まで行われた.9月1日〜2日朝にかけて,乗船研究者の入れ替えと荷物の積み込みのために岩手県の宮古港に寄港した.筆者は,少し足を伸ばし,片道440円を払って三陸鉄道北リアス線に乗り,宮古駅から3つ目の駅の田老駅で下車した(写真1).

田老の街には,巨大な砦を連想させる防潮堤が縦横無尽に張り巡らされている(写真2).それらの防潮堤は,二度にわたる巨大な津波が田老の街に押し寄せたことに深く関わっている.明治29年6月15日の午後8時過ぎ,三陸海岸に津波が押し寄せ,全体で死者6477人の被害を出した.田老には15メートル近くの津波が押し寄せ,村民の7割以上の命が奪われた.その36年後の昭和8年3月3日の午前2時過ぎには,昭和三陸津波が襲来した.このとき,田老には10メートル近くの津波が押し寄せ,972人の死者を出した.これらの津波被害を二度と出さないために,昭和三陸津波の翌年の昭和9年に防潮堤の建設に着手した.その防潮堤は,戦争で工事が一時中断したものの,昭和33年に完成した.まさに街を津波から守る「砦」と言ったところであり,現在の総延長は2.4キロ,海面からの高さは約10メートルである.

田老駅を降りて,駅舎で尋ねると近隣の地図がもらえる.駅を出て,左手の坂を上り,小高い国道45号線に出ると,すぐに防潮堤が見える(写真3).防潮堤の上は歩けるようになっており,そこを伝って,景勝地で有名な三王岩まで行くことができる.30分の散歩道と言ったところである.三王岩までの防潮堤の道のりでは,道路や河川を通すための鉄の門が幾つも見られ,物々しさが感じられる(写真4).海岸の崖には明治29年と昭和8年の津波の波高が記録されており,周辺の建物を凌駕するその高さに圧倒される(写真5).


写真3 田老の防潮堤.手前の道路が国道45号線で,奥に見えるコンクリートの壁が防潮堤.

写真4 防潮堤にある鉄の門.道路や河川と交差する箇所に設置されている.左には非常用階段が見える.


田老を訪れた日は,9月1日で,偶然ではあるが,防災の日だった.大正12年9月1日の正午,東京をマグニチュード7.9の地震が東京周辺を襲い,火災によって,十万人を超える方々が亡くなった.このときの地震でも津波が観測されており,房総半島南部,三浦半島から伊豆半島で数m〜十数mであったとされる.津波は,本震から約5分後に神奈川県の沿岸に到達し,根府川地区では,5〜6メートルの津波が押し寄せたとされる.首都近辺でこのような地震が再び生じると,その被害は甚大なものになると予想されており,地震予知は未だ難しい領域であるにしても,その地震のメカニズムについて少しでも理解するための試みがなされている.その中でも,東京近辺の海底を掘削する「関東アスペリティープロジェクト(略称KAP)」が現在進行中である.今年12月のアメリカ地球物理学連合のFall meetingやその後の日本での学会などで,関連の発表やイベントの案内を見る機会があるだろう.このようなプロジェクトによって,地震学やそれに基づいた地震防災が少しでも進歩するのならば,我々地球科学者はそれに取り組まなければならないのかもしれない.

近年,スマトラ地震に代表されるように,地震に伴う巨大な津波によって,多くの被害が生じている.防災対策に対して,関心が高まっている時期でもあると言える.田老を訪れると,津波が頻繁に日本に押し寄せたことを,身をもって理解することができる.田老は,街全体で津波に対する防災を実感,体感できる場所であり,過去の記憶を伝承する上でも重要な街である.


写真5 明治29年の津波波高(上の印,15メートル)と昭和8年の津波波高(下の印,10メートル).手前の自動車と比べてもその高さ如何に高いかがよくわかる.
 

文献
釜石市ホームページ,津波災害について.
武村雅之,2007,1923(大正12)年関東大震災ー揺れと津波による被害ー.広報ぼうさい,39,20-21.
東北地方整備局,2005,東北歴史探訪 田老万里の長城.東北コミュニケーションマガジン,28.