2004年台風10号豪雨で発生した徳島県那賀町阿津江の破砕帯地すべりと山津波
Fractured zone landslide and debris flow at Azue, Naka Town, Tokushima Prefecture,induced by the heavy rainfall of Typhoon Namtheun in 2004

横山俊治1 村井政徳2中屋志郎3 西山賢一4大岡和俊5 中野 浩6
Shunji Yokoyama 1, Masanori Murai 2,Shirou Nakaya 3, Ken-ichi Nishiyama 4,Kazutoshi Ohoka 5 ,and Hiroshi Nakano 6
受付:2006年6月27日
受理:2006年7月28日
* 日本地質学会第113年学術大会(2006年・高知)見学旅行(I班)案内書
1.高知大学理学部自然環境科学科
Department of Natural EnvironmentalScience, Kochi University, Kochi 780-8520,Japan.
2.高知大学大学院黒潮圏海洋科学研究科黒潮圏海洋科学専攻
Division of Kuroshio Science, Graduate Schoolof Kuroshio Science, Kochi University,Nankoku 783-8502, Japan.
3.京都大学大学院理学研究科地球惑星科学専攻
Division of Earth and Planetary Sciences,Graduate School of Science, Kyoto University,Kyoto 606-8502, Japan.
4.徳島大学総合科学部自然システム学科
Department of Mathematical and NaturalSciences, Faculty of Integrated Arts andScience, The University of Tokushima,Tokushima 770-8502, Japan.
5.株式会社サンブレーン・プラン
Sun Brain Plan Co., Ltd., Tokushima 771-1156,Japan.
6.株式会社創研技術
Soken Engineering Co., Ltd, Tokushima 770-

 


概 要
小出(1955)の定義による破砕帯地すべりは今日の知識からすれば付加体分布地域で多発している.破砕帯地すべりは地すべり性崩壊であると小出(1955)が記述しているように,崩壊時に破壊された地すべり移動体は山津波となって谷を流下し,しばしば末端では河川を堰き止める.見学地である阿津江の事例には,このような破砕帯地すべりの特徴がくまなく現れている.見学は末端部から発生域へと進めていこう.末端部では,坂州木頭川渡った山津波が対岸の斜面を50 mほどの高さまで乗り上げている.ここでは,山津波の流れを記録する樹木に刻まれた流下痕跡を観察し,一旦は斜面に乗り上げた土砂や構造物の大部分を洗い流した強い引きの流れの存在,山津波の一部が坂州木頭川を跳び越えている状況を確認する.発生域では,崩壊頭部のクラック群・緊張した樹根,崩壊壁の地質を,発生源の谷底では新旧の土石流堆積物,破砕帯,断層を観察する.

 


Key Words
Typhoon Namtheun, fractured zone landslide‘, Yamatsunami’, debris flowdeposits, greenstone
地形図
1: 25,000 「雲早山」
見学コース
[1日目]8:00 高知大(朝倉)→別府峡(休憩)→11:00 那賀町符殿→(昼食)→15:40 阿津江→18:00 鷲敷青少年野外活動センター(泊)
[2日目]7:00 鷲敷青少年野外活動センター→8:30 那賀町阿津江→14:00 JR徳島駅→14:30 徳島空港→17:00 高知龍馬空港

用語解説
1.山津波と土石流

 
第1図.分野別にみた土石流関係用語の変遷(西本,2006).

第1図は分野別に見た土石流関連の用語の変遷である(西本,2006).ここでは,用語「土石流」と用語「山津波」について検討してみる.それは,現在の学術用語が「土石流」であることを承知の上で「山津波」をこの見学案内書で使用している理由を説明することでもある.用語「土石流」の使用は研究分野で最も早く,それは1916年のことである(西本,2006).行政がそれに続き,社会(新聞報道など)と言語(辞書)で用語「土石流」が使用されるようになったのは1970年代である(第1図参照).
一方,用語「山津波」が研究分野で使用されたのは1950年の中頃であるが,定着しなかった(西本,2006).しかし,1889年には国語辞典に用語「山津波」が掲載されている.国語辞典への掲載は当時の一般社会では用語「山津波」の使用頻度が高くなって日本語として認知されたことを示している.一般社会と報道関係との大きな時期的ずれ(第1図参照)は,1960 年頃まで,土石流関連の災害が報道の舞台に登場しなかったということであろう.
西本(2006)によれば,用語「山津波」は,土石流の実態がよく分かっていなかった時代に生まれたもので,津波のように押し寄せてくるイメージを感覚的・比喩的に表現されたものであるという.これに対して,用語「土石流」は“物(土と石)”と“流れる”という物理現象を表現する用語であり,土石流を表現するには最も理にかなった用語である(西本,2006)としている.ここで問題にしたいのは,実在の土石流の構成物が土と石だけなのかということである.もちろん,水の存在を忘れていると言うつもりはない.水の存在を自明のこととして扱っているのであろう.問題は水の量である.村井ほか(2006)は,2004年台風15号による大川村の土石流災害で,谷を流下する土石流の水位が土石流堆積物の数倍にもなることを明らかにしている.実在の土石流における水の量は土石の間に含まれている程度として片隅においておけるようなものではない.さらに,同時に多量の流木が流れる.土石だけに目を奪われていたら,その実態を見失うことになる.ちなみに,土石流を表現する英語は「debris flow」(砂防学会編,2004)で,語彙の意味するところは日本語の用語「土石流」と同じである.ここでは,土石と流木と水からなる混合流体物を指す用語として「山津波」を用いる.土石の定置・堆積したものは「土石流堆積物」と呼ぶことにする.

 

2.破砕帯地すべりと破砕帯
破砕帯地すべり(英訳はfractured zone landslide;日本地すべり学会地すべりに関する地形地質用語委員会編,2004)の特徴は小出(1955)の「日本の地辷り」の記述にしたがって要約すると以下のようになる.破砕帯地すべりは崩壊に近い一次地すべりで,地すべり移動体は崩壊と同時に流動化し,発生域を離れて遠くまで移動し,しばしば河川に突っ込んで天然ダムをつくる.これが荒廃河川の原因になる.崩壊後の斜面は安定性が高く,地すべり移動体の構成物は砂礫質であるために傾斜畑として利用されることが多い.すなわち,破砕帯地すべりは徐動性の地すべりではないという点がまず重要である.
破砕帯地すべりのもうひとつ重要な特徴は帯状分布にある.それは帯状分布を示す破砕帯の構造規制を受けて地すべりが発生したことを意味する.小出(1955)は「岩石が破砕されている限りでどんな地質や岩石のところでもおこる.」としているが,破砕帯地すべりの多くが付加体で発生しているという事実は,素因となっている破砕帯の形成が付加体の地質構造と密接に関係していることを示唆している.
「断層そのものはむろん破砕帯ではない.このような破砕岩(断層角礫岩や断層粘土を指す;著者ら注記)が,たとえ幅20〜30 mにわたった断層であっても,それだけではむろん破砕帯ではないし,破砕帯と呼ぶ資格もない.」と小出(1955)が述べているように,小出のいう用語「破砕帯」は今日一般に破砕帯と呼んでいるもの(地学団体研究会編,1996)とは異なる.この点がまず重要であるが,今日まで用語「破砕帯地すべり」は,上記小出の破砕帯の内容と地すべり性崩壊であることの2点を無視してしばしば使われている.
小出(1955)は破砕帯を「地殻変動で歪力をうけ,壊された地帯」,あるいは「自然にあるがままの状態で歪力をうけ,もまれるための破砕作用で,その結果をみると,岩石が徹底的にこわされることがあり,細粒化,ブロック化という程度にこわされることもある.」と定義し,解説している.しかし,この定義・解説では小出のいう破砕帯の実態は捉えにくい.「日本の地辷り」の中で小出は破砕帯の典型例として蛇紋岩の構造を挙げている.その特徴は,無数の剪断面の発達によって,角礫状あるいは片状を呈すること,剪断面は輝く鏡肌を呈し,粘土脈を挟在しないことである.いわゆる黒瀬川帯の蛇紋岩ではこういった破砕帯が岩体の全体に及んでいるが,いわゆる黒瀬川帯の蛇紋岩を地学団体研究会編(1996)の定義による破砕帯として記載する習慣はこれまでになかった.後述するように,今回の見学地の阿津江や大用知では,緑色岩が蛇紋岩と同様の破砕帯構造をもっていることが明らかになった.
しかし,小出(1955)が破砕帯と記載している地帯のあるもの,例えば瀬戸川層群や大井川層群の破砕帯では地すべり性崩壊が発生し,地すべり性崩壊発生前の地質体は“破砕”しているが,その破砕帯(破砕岩)は地学団体研究会編(1996)の定義による破砕帯とも蛇紋岩の破砕帯とも異なっていて,重力による岩盤クリープ変形に起因したものである( C h i g i r a , 1 9 9 2 ; 千木良,1998;横山・柏木,1996).このような破砕帯は小出(1955)の破砕帯の定義から外れるが,小出(1955)が認定したほかの破砕帯でも岩盤クリープから地すべり性崩壊に至る斜面変動が発生しているのが確認されている(横山,2003参照).このタイプの破砕帯地すべりも付加体の斜面変動を特徴づけるものである.

2004年台風10号災害の概要

1.気象・降雨状況

第2図.阿津江に近い気象観測所の降水量の変化(櫻井ほか,2006).
第3図.阿津江周辺の等雨量線図(2004/7/30-8/2,4日間雨量)(櫻井ほか,2006).

2004年7月25日に南鳥島の西海上で発生した台風10号(ナムセーウン)は,31日夕方に高知県西部に上陸し,四国・中国地方を通過して日本海へ抜け,8月1日には日本海で弱い熱帯低気圧に変わった.台風の接近・通過に伴い,徳島県南部の那賀川流域では7月30日の夜から雨が降り始め,台風通過後も長時間にわたって豪雨が継続した.那賀町海川の雨量計では,8月1日の日雨量が,同じ那賀町木頭で1976年に観測された日本記録を200 mm以上更新する1,317mmを記録した(7月30日〜8月2日までの総雨量は2,050mm).
見学地に近い気象観測点での降水量の時間変化(櫻井ほか,2006)を第2図に示す.図のように,降雨は8月1日の午後から夜にかけてピークに達しており,主な災害は8月1日の夜に発生した.7月30日〜8月2日にかけての総雨量コンター図(櫻井ほか,2006)を第3図に示す.7月30日〜8月2日にかけての総雨量が1,400mm以上に達したのは,那賀川支流の海川谷川および坂州木頭川に沿った南北約20数km,東西5 〜10数km程度の狭い領域である(櫻井ほか,2006).
2.地形・地質概要ならびに過去の災害履歴
那賀川上流域は四国山地の南東部にあたり,剣山(1,955 m)の南側に位置する.この地域は標高230 〜1,955 mの山地からなり,全般に急峻な地形を呈する.稜線と谷底の比高は,数100 m〜1,000 mにも達し,山腹斜面の傾斜も30°〜40°と急傾斜であるが,一部の谷壁を除くと裸地の断崖絶壁は少ない.那賀川と大きな支流である坂州木頭川には滝などの傾斜変換点はほとんど存在しないが,それらに合流する支流にはしばしば存在する(例:那賀町沢谷の大轟の滝).

 
第4図.阿津江周辺の地質図(村田,2003).
第5図.阿津江周辺における崩壊分布図(西山ほか,2005a).

今回の見学地である阿津江を含む那賀川上流・木沢地域の地質に関しては,最近ではTominaga(1990),富永(1990),山北(1998),四国地方土木地質図編纂委員会(1998),石田・香西(2003),村田(2003),石田ほか(2005)などの研究があるが,地質構造のみならず,地帯構造区分の所属・名称,形成時代(付加の年代,変成作用の年代)も研究者によって見解が異なっている.ここでは,これらの研究成果を踏まえ,2004年に発生した斜面崩壊の分布地域を中心にその概要を述べる.なお,地質図は村田(2003)を第4図に示す.2004年に発生した崩壊のうち,那賀町の大用知,加州,阿津江,沢谷(嫁ヶ滝)の崩壊が発生した地域は,ほぼ秩父(累)帯中帯(四国地方土木地質図編纂委員会,1998など)あるいは中部秩父帯(山北,1998など)と呼ばれる地帯に所属していて,ジュラ紀付加体の分布地域である.大用知の崩壊地と阿津江の崩壊地から山津波の流下域にかけては玄武岩組織を明瞭に残すペルム紀の緑色岩が分布している.一方,大用知の集落付近や阿津江の崩壊地の南の地域には時代未詳の蛇紋岩が分布しており,加州や沢谷(嫁ヶ滝)には泥質・砂質・凝灰岩質の準片岩が分布している.さらに,阿津江の崩壊地の東側の尾根には礫岩が分布している.蛇紋岩や準片岩類,白亜系礫岩は黒瀬川帯(四国地方土木地質図編纂委員会,1998)と呼ばれる地帯を特徴づける岩石である.
海川1号と海川2号の崩壊は,秩父(累)帯南帯(四国地方土木地質図編纂委員会,1998など)あるいは南部秩父帯(山北,1998など)に属する三宝山帯あるいは三宝山ユニット(松岡ほか,1998)のジュラ紀付加体分布域で発生しており,三畳紀の石灰岩・チャートや,ジュラ紀の砂岩頁岩互層などが関与している.海川1号の崩壊地の地質は砂岩頁岩互層,海川2号のそれは石灰岩・チャートである.
山地斜面にはしばしば地すべり地形が認められるが,四国山地の地すべり密集地帯(三波川帯・御荷鉾帯)と比較すると少ない(寺戸,1986).
尾根には,しばしば線状凹地が認められる(例:那賀町源蔵ノ窪など).この種の微地形は,山体の重力変形に伴う地形と考えられており,大規模な崩壊地の周辺に付随して認められることがあるため,崩壊前兆地形とも考えられている(例えば,千木良,1995).四国山地各地でも同様の微地形が分布しており(古谷,1979;寺戸,1986;加藤,2002;布施・横山,2003),高知県室戸市の加奈木崩れのように,南海トラフを震源とする大地震により大崩壊を起こした斜面も知られている(甲藤,1980;寺戸,1986;千木良ほか,1998).
那賀川上流域は日本屈指の多雨地域でもあり,これまでにも豪雨による斜面災害を繰り返し受けてきた.1892年には,那賀町大戸の高磯山北斜面で大崩壊が発生し,約400万m3もの崩壊土砂が2つの集落を完全に埋没させるとともに,那賀川本流を堰き止めて天然ダムを形成し,2日後に決壊して大洪水を引き起こした(寺戸,1970;井上ほか,2005).1976年台風17号豪雨に伴い,那賀町木頭の新九郎山東斜面で発生した大崩壊は,崩壊土砂量が約100万m3と推定されており,崩壊土砂の堆積により下流域の河床が数10m上昇し,土石流段丘を形成した(寺戸,1977).このほか,四国山地南東部では,1701年に発生したと推定される徳島県上勝町山犬岳の崩壊,1788年に発生したと推定される高知県香美市物部町の窪田海の崩壊,那賀町・高磯山崩壊と同日に発生した徳島県海陽町保瀬の崩壊などの事例が知られている(寺戸,1975;井上ほか,2005).
3.2004年の崩壊分布と豪雨域との関係
今回の見学地である阿津江周辺における崩壊分布図(西山ほか,2005a)を,第5図に示す.これらの崩壊が発生した地点は,日雨量が1,000 mm以上を記録した豪雨域とほぼ一致する.ただし,崩壊発生密度は1km2当たり最大でも10個以下であり(西山ほか,2005a;櫻井ほか,2006),記録的な雨量の割には斜面崩壊の発生数が少ない.その原因としては,1976年豪雨をはじめとする豪雨常襲地帯であるため,斜面の表層風化帯はすでに取り除かれ,斜面はほとんどが硬質で風化に対する抵抗性が高い堆積岩からなっていて,いわゆる「崩壊の免疫性」を獲得していることが考えられる(西山ほか,2005b)が,今後より詳細な検討が必要である.
見学地のみどころ

 

STOP 1 符殿集落
符殿集落は国道193号線三田口バス停脇の林道を約1kmいったところである.大用知集落から加州谷を経て行くこともでき,大用知集落からは約4.5 kmである.符殿集落では,地すべり性崩壊発生域から山津波の流下経路の全体を遠望することができる.
STOP 2 符殿トンネル北側坑口付近
緑色岩の破砕帯構造を観察できる.山津波で持ち上げられた現河床堆積物由来の礫,樹木に刻まれた各種流下痕跡を観察できる.
STOP 3 坂州木頭川の左岸斜面
坂州木頭川左岸へは右岸から川の中を歩いて渡ることになる.坂州木頭川は比較的水量が少ないときでも浅いところで膝くらいまで水位があるので,十分な注意が必要である.左岸斜面は山津波によって露出したF1断層面に沿って登る.断層面には山津波の流下による削痕が多数刻まれている.
標高400 m程度まで斜面を登ると,ルートAおよびBの山津波の流下経路を遠望することができる.
STOP 4 旧木沢村風車前
風車は国道193号線から町道黒滝寺線を約4km行ったところで,木頭名集落を通り抜けてすぐのところにある.風車前には展望デッキが設置されており,大用知および加州で発生した山津波を遠望することができる.また,道路切土斜面には蛇紋岩が露出している.展望デッキからの眺めは大変よく,晴天の日にはここで昼食を摂られることをお勧めする.
STOP 5 加持久保神社〜黒滝寺
風車前で道路は黒滝寺と阿津江集落へと二手に分かれる.加持久保神社は風車から約1km,そこからさらに1km行くと黒滝寺に至る.
阿津江の破砕帯地すべり発生域の変動地形および道路や構造物の地すべり変状を観察することができる.地すべり発生域のクラックの破断面には風化した緑色岩が露出しており,クラックを跨ぐように伸びる緊張した樹根がある.この緊張した樹根の方位からは変動域側の地盤の移動方向を推定することができる.

STOP 6 阿津江集落

第6図.阿津江で発生した山津波の全景

風車前から阿津江集落までは1.3kmである.道路はここで行き止まりとなり,阿津江山津波によって全壊した家屋がある.ここから山津波が流下した谷へ下りることができ,土石流堆積物やF1,F2断層の断層ガウジを観察できる.
阿津江の破砕帯地すべりと山津波本章では,本見学地の阿津江の破砕帯地すべりと山津波(第6図)について記述する.なお,見学地点との関係を明確にするために,適宜【STOP番号】を文末等に記した.

 

1.災害地名「阿津江」

第7図.見学地点位置図(国土地理院発行1/25,000地形図「雲早山」に加筆).

小川(1995)によると,「阿津江」という地名は,古語「アズヘ」で崖崩れの上,崖崩れの辺りを意味しているらしい.楠原・溝手編(1983)の地名用語語源辞典では,「アヅ」は崩壊,久豆礼とあり,「エ」は上の転訛,動詞ヱル(彫)の語幹で「掘られたような地形」,動詞ヱル(笑)の語幹で「ほころびる.割れる」といった意味があるようである.
また,阿津江にある竜王山黒滝寺(第7図)には,その昔,弘法大師が悪竜を退治して寺の池に封じ込めたという伝説が残っている.大師が退治した「悪竜」とはおそらく山津波を指していると考えられる.このように,自然地名や当地に伝わる伝説からも阿津江では過去に地すべりが発生したであろうことが読み取れる.

 

2.古い変動地形・過去の土石流堆積物

第8図.阿津江山津波発生域付近の地質図.(横山ほか,2005を修正)

上述の悪竜を封じ込めたという池は現在空池であるが,1582年に長曽我部元親の軍勢が黒滝寺に攻め上った時には池の水が血で染まったと伝えられている【STOP5】.この池は開口クラックに起因した線状凹地である可能性が高く,池の水が涸れたのは斜面変動に伴ってクラックが再び開口したことが原因と考えられる.池の位置は後述する破砕帯地すべりAの崩壊壁背後に広がる準変動域(大八木,1992)(変動域A‐1)を画するクラック群の北方延長上に当たる.線状凹地は準変動域の背後の尾根にも存在する【STOP 5】.尾根の裾には段差地形が認められ,準変動域を画するクラック群の一部は段差地形に沿っている【STOP 5】.
破砕帯地すべりAの滑落崖の北半部には成層構造を有する土石流堆積物が露出している【STOP 6】(第8図).今回の山津波が流下した谷の右岸壁にも削剥によって過去の土石流堆積物が露出した【STOP 6】.また,今回山津波が乗り上げた対岸斜面にも過去の土石流堆積物が露出した.これらの事実は,この谷で複数回の山津波が発生したことを示唆している.

 

3.基岩の地質

第9図.F2断層の断層ガウジ.

阿津江の破砕帯地すべりの発生域から山津波の末端まで,基盤にはペルム紀の緑色岩が広く分布している【STOP 2,3,5,6】(第8図).岩石名は緑色岩であるが,地表付近に露出している緑色岩のほとんどは赤紫色を呈していて,雨が降ると赤紫色の水が流れ出てくる.緑色岩には無数の微小断層群が網目状に発達し,個々の断層面は非常に磨かれた鏡肌になっているのが特徴である【STOP 2,3,6】.このような破砕構造を有する地質を小出(1955)は破砕帯と呼んでいる.
この緑色岩の中には局部的に石灰岩や砂岩の薄層が挟在している.坂州木頭川沿いの緑色岩中で挟在している石灰岩は褶曲したり,小断層によってずれていたりするが,全体としては緩やかに北に傾斜している.山津波による削剥で河床に露出した石灰岩と緑色岩の境界面の走向・傾斜はN40°E,16°NWと緩傾斜である【STOP 3】.尾根付近に存在する砂岩の分布形態も緩傾斜である.第4図の地質図は高角度の地質構造が読めるが,阿津江周辺地域の地質構造は緩傾斜である可能性が高い.阿津江の破砕帯地すべりの発生域から山津波の流下した谷の出口にかけて,走向はN60°E〜N65°Eで傾斜は30°程度北落ちのF1断層が走っている【STOP 6】.谷の出口付近の左岸谷壁には,F1断層面が露出している【STOP 3】.この断層面には山津波の流下による削痕が多数刻まれている.破砕帯地すべり発生域には走向N52°W〜N60°Wで傾斜32〜62°SのF2断層が右岸谷壁に沿って走っている【STOP 6】.F1 断層とF2 断層を地下に延ばすと地下で交わることになり,両断層とも幅1m前後の粘土質の断層ガウジを伴っているために遮水層になりうると考えられる(第9図).

 

4.阿津江の破砕帯地すべり発生域の斜面変動

第10図.阿津江の破砕帯地すべりの分布図(横山ほか,2005を修正).
変動領域A‐1のa〜e領域クラック群の形態.

阿津江の破砕帯地すべりは谷頭部付近と支谷の左岸側の標高480 m付近で発生した(第10図).それぞれ,破砕帯地すべりA, Bと記号を付け,さらに破砕帯地すべりAは記載の便宜上A‐1〜A‐5の5つの変動領域に区分した.
(1)破砕帯地すべりA
1)変動領域A‐1【STOP 5】変動領域A‐1は破砕帯地すべりAの滑落崖背後に広がる準変動域で,その頭部を画すクラック群と変動領域A‐2の滑落崖と変動領域A‐3の滑落崖に挟まれた領域を指す.ただし,変動領域A‐1はこれらのクラック群によって完全に閉じているわけでない.クラック群はクラックの分布形態や方向によってa〜eの5つの領域に分けることができる(第11図).このうち,a領域からc領域に至るクラック群は変動領域A‐1の頭部を画するもので,d領域のクラック群は変動領域A‐2の滑落崖の背後に,e領域のクラック群は変動領域A‐3の滑落崖の背後に分布している.

a領域a領域のクラックは局部的に湾曲しているが平均方向N65°Wで約100 m連続し,変動域A‐1の頭部の北端の頭部を画している.クラックの南南西側(変動領域側)が約100 cm下がり,多くの場所で50 cm程度開口している.破断面には風化した緑色岩が露出している.クラックを跨いで伸びる緊張した樹根の方位から推定した変動域側の地盤の移動方向は南西である.

b領域b領域は,N25°Eに延びる帯状の領域に,長さ2〜36 mで北西から南北に延びる多数のクラックが雁行状に分布している.a領域に続くが,クラックの方向は大きく変化している.全てのクラックで南西側(変動領域側)が20〜250 cm下がる.開口幅の狭いクラックが多いが,80cm開いているところもある.破断面には風化した緑色岩か岩屑が露出している.緊張した樹根の方位は,クラックの走向に直交する方向に対して,反時計回りに10〜40 度斜交している.これは,クラック群の雁行状配列パターンから推定される変位センスと調和的で,左横ずれを示している.緊張した樹根の方位から推定した変動域側の地盤の移動方向は西南西である.c領域c領域には N58°E〜N50°Eに延びる長さ約70mのクラックが分布している.クラックの南西側(変動領域側)が80〜220 cm下がり,開口幅は狭い.破断面には新鮮な緑色岩が露出しているところが多い.緊張した樹根の方位から推定した変動域側地盤の移動方向は西南西である.

d領域d領域はc領域のクラックと変動領域A‐2の滑落崖とに囲まれた領域で,加持久保神社の境内にあたる.複数のクラックが発達しているが,西側に発達する長さ約25 mでN23°E〜NS方向に延びるクラックに沿ってクラックの東側(境内側)が20〜60 cm下がっているので,このクラックとc領域のクラックに囲まれた領域は陥没していることになる.そのほかのクラックはNS〜N30°Eで落差を伴わない開口クラックで,上記の連続性の良いクラックの東側に分布している.

e領域e領域は変動領域A‐3の滑落崖の背後に位置している.長さ10 m以下のクラックが複数分布する.ひと続きのクラックであっても折れ曲がり,クラック群の方向はN22°W〜N50°Eと変化が著しい.クラックの北側(変動領域側)が下がるものとその反対側が下がるものとがあるが,落差は20〜80 cmで差はない.破断面には風化した緑色岩か岩屑が露出している.緊張した樹根の方位はばらつく.e領域のクラック群は変動領域A‐3の変動に関係して形成された可能性があり,クラックのあるものは変動領域A‐3の滑落崖に連続しているが,あるものはクラックに直交する滑落崖に切られている.2)変動領域A‐2【STOP 5,6】
変動領域A‐2は破砕帯地すべりAの中央部の南側に当たり,地すべり移動体は緑色岩からなり,一部砂岩層を挟在する.地すべり移動体そのものは大部分が発生域に残っている.樹木の傾動から地盤の動きを読み取ることができる.頭部滑落崖は加持久保神社の前の道路の西端に沿って走り,落差2 m程度の崖をつくっている.崖には風化した緑色岩が露出し,その中に地表部ほど広く開口したクラックが発達している.地すべり移動体の左岸側部の上方は非変動岩盤と接し,下方は破砕帯地すべりBと接している.後者では,境界に沿って断層ガウジの絞り出しが認められることから,左岸側部に沿って,支谷の左岸側を走るF1断層が延びている可能性が高い.地すべり移動体の右岸側部は変動領域A‐3の左岸側方崖で切られている.
地すべり移動体の中央部にも段差の明瞭な滑落崖が発生し,それより下流の地すべり移動体は回転すべりを起こし,樹木は山側に傾動している.そしてさらに地すべり移動体の末端では岩塊・岩片が堆積している.これは地すべり移動体内で分離した岩塊・岩片が樹根の繁茂している表層を残して流れ出して堆積したもので,地すべり性崩壊の特徴が一部に現れている.
3)変動領域A‐3【STOP 5,6】
変動領域A‐3は破砕帯地すべりAの中央部から下部にあたる.現在は地すべり移動体のほとんどが発生域から移動し,山津波となって流下している.右岸側方崖の上部10〜20 mは過去の土石流堆積物からなり,その下部には緑色岩が分布している.緑色岩の崖の下部の一部には,谷の右岸側を走るF2断層が顔を出している.頭部滑落崖と左岸側方崖は緑色岩が露出している.また,発生域の下流部谷底には過去の土石流堆積物が崩壊せずに残っている.したがって,変動領域A‐3の地すべり移動体はその上部が緑色岩で,中央部から下部にかけては過去の土石流堆積物でできていたものと推定している.
4)変動領域A‐4【STOP 6】
変動領域A‐4は変動領域A‐3の崩壊後,不安定になって崩壊し,山津波となって流下した.地すべり移動体は旧土石流堆積物からできていたものと考えている.
5)変動領域A‐5【STOP 6】
砂岩層からなる南北方向の滑落崖をもつ古い地すべり移動体の右半部が変動したもので,東西方向の開口クラックが民家の下を走ったために民家は大きく傾き,ねじれている.クラック内の緊張した樹根の方位から推定される地すべり移動体の移動方向は北北西である.地すべり移動体の北側は変動領域A‐3の左岸側方崖に切られている.
(2)破砕帯地すべりB
地すべり移動体の地表には樹木が残っていて,地すべり移動体から崩れでた岩塊・岩片は山津波となって流下し,後述するルートCの山津波の主体となった.
(3)斜面変動の順序
破砕帯地すべりAの各変動領域の間で斜面変動の順序を検討した.
変動領域A‐1は大局的には南西から西南西方向に移動しており,変動領域A‐2や変動領域A‐3の移動方向(西北西)とは異なっている.さらに,頭部クラック群に沿う変動領域の移動方向はa領域と,b領域とc領域との間で異なっている.また,a領域の北の端から変動領域A‐2の滑落崖までは大きく離れている.以上のことから,変動領域A‐1の地下にひと続きのすべり面が形成されていると考えるのは疑問である.破断面に現れた条線の落とし方向は近傍の緊張した樹根の方向と調和的で,条線の落とし方向も領域毎で異なり,しかも落とし角は高角である.その落とし角を地下に延ばすとすべり面は地下深く潜り込んでしまう.このことからもひと続きのすべり面で滑動している可能性は低い.また,変動領域A‐1の中央部で掘削した掘進長75 mのボーリングコアにもすべり面であることが確実な構造は観察されていない.
変動領域A‐1の頭部のクラック群に沿う移動方向は変動領域A‐3の滑落崖の方向と大きく斜交しているので,変動領域A‐3の崩壊で不安定化して変動領域A‐1が動いたとは考えにくい.斜面変動A‐1と斜面変動A‐3との関係,斜面変動A‐2と斜面変動A‐3との関係も同様に考えることができる.すなわち,破砕帯地すべりAでは,変動領域A‐1,A‐2,A‐3,A‐4あるいはA‐5の順に変動したと考えている.


5.山津波の運動像

(1)山津波の流下痕跡
阿津江の破砕帯地すべりでは,山津波が流下したことを示すさまざまな証拠(流下痕跡)が得られている.以下に流下痕跡の種類と特徴を述べる.
1)土石流堆積物と現河床堆積物由来の礫土石流堆積物が山津波の流下経路を示す証拠であることはその通りであるが,阿津江では破砕帯地すべりの発生域から山津波の先端まで,基岩は緑色岩で構成されているため,斜面に分布する岩屑が今回の山津波の産物であることを示すには,ある程度の厚さの岩屑が地表面を被覆していることが示されないと難しい.今回山津波が乗り上げた坂州木頭川の右岸側斜面では,山津波が坂州木頭川を渡るときに巻き上げた現河床堆積物由来の礫が重要な証拠になった.砂岩や石灰岩の円〜亜円礫は現河床堆積物由来の礫である【STOP 2】.

 
第12図.樹幹切断部のささくれの傾動現象(中屋ほか,2006).矢印はささくれの傾動方位を示す.ささくれの間には礫がはさまっていて,根元には番線を含む流下物が巻き付いている.
第13図.樹皮の剥げ落ち現象(中屋ほか,2006).矢印は剥げ落ち部の最上位を示している.
第14図.礫の突き刺さり現象.(a)樹皮の剥げ落ち部に突き刺さった緑色岩の粗礫.やや下方より上向きに突き刺さっている様子がうかがえる.(b)樹皮の剥げ落ち部に突き刺さっている緑色岩の中礫群.樹幹のめくれ上がりの範囲と中礫がジグソーパズルのようにかみ合っていることから粗礫が衝突後に粉砕したものと思われる.(c)樹皮の剥げ落ち部に斜め上方から突き刺さった痕跡を残す緑色岩の中礫.土石流の乗り上げ方向とは逆方向から突き刺さっているため,土砂が斜面に衝突した際に礫がその衝撃で飛散したことをうかがわせる.
第15図.スギ立木の樹幹に残された流下痕跡の一例.
第16図.樹幹への流下物の巻き付き現象(中屋ほか,2006).巻き付いたものの多くは枝葉や樹根であり,番線や電線などもみられた.また,現河床礫が流下物の中に挟まってこともある.
第17図.符殿橋の橋脚の鉄筋の折れ曲がり.鉄筋の曲がり方向は山津波の引きの流れ方向と一致している.

2)樹木に刻まれた流下痕跡【STOP 2】山津波発生後の空中写真をみると,山津波が流下したところは樹木が失われている(日浦ほか,2004;Hiuraet al.,2005;Wang et al.,2005;橋本ほか,2006).樹木の流出は山津波の流下経路を示す重要な流下痕跡である.
流出していない樹木もさまざまなダメージを受けており,それらは山津波の水位や流下方向が推定できる流下痕跡である(村井ほか,2006;中屋ほか,2006).阿津江では,樹幹の切断,樹皮の剥げ落ち現象,礫の突き刺さり現象,流下物の樹幹への巻き付き現象が観察されている(中屋ほか,2006).
樹幹の切断樹幹の切断には,ほぼ樹幹の根元付近で切断され,切断面が縦に裂けてジグザグにささくれたもの(第12図)と,地表から数メートルの所でかなり鋭利な面で切断されたものの二通りが見られた.いずれの場合にも切断面に礫が挟まっている.第12図では,ささくれが一方向に折り曲げられているが,折り曲げられた方向は流下方向を示すものと考えられる.
樹皮の剥げ落ち現象流下物が樹幹へ衝突したことによって樹皮の一部分が剥げ落ちている現象(第13図)で,剥がれた部分の向きが山津波の流下方向を示していると考えている.
礫の突き刺さり現象礫の突き刺さり現象は台風15号によって高知県大川村で発生した山津波でも,山津波が通過した渓流内の樹木で観察された(村井ほか,2006).上流側から突き刺さっている礫が多いことから,それは山津波の流下方向を示しているものと考えられた.阿津江では山津波が乗り上げた斜面に植わっている樹木で多数観察された(第14図,第15図).礫は樹皮が剥げ落ちた部分に突き刺さっていることが多く,礫径は数mmから数cmで,ほとんどが緑色岩であるが,現河床礫もある.後述するように,礫の突き刺さり現象からは複数の流下方向が推定される.流下物の樹幹への巻き付き現象流下物の樹幹への巻き付き現象は河川で橋脚に漂流物が上流側から巻き付くのと同じ現象で,流下方向が推定できる重要な指標である(第16図).
3)構造物に刻まれた流下痕跡さまざまな流下痕跡が観察されるが,後述するように,阿津江では駐車してあった車両の移動方向や符殿橋の橋脚の鉄筋の曲がり方向(第17図)が山津波の流下方向を示す貴重な流下痕跡となった.

 
第18図.阿津江で発生した山津波の流下経路.(横山ほか,2005を修正)
第19図.阿津江で発生した山津波の末端部の被災直後の様子.
第20図.阿津江で発生した山津波の流下・到達範囲.(横山ほか,2005を修正)

(2)山津波の流下経路
樹木の流出範囲から推定される山津波の流下経路はルートA〜Cの3ルートである【STOP 1】(第18図).
1)ルートAの山津波
ルートAの山津波は支谷の中央を流れて坂州木頭川まで達した後,坂州木頭川を堰き止め,対岸に乗り上げた山津波である.この山津波は河床に堆積していた過去の土石流堆積物を削りながら流下するとともに,流路の右岸側では,過去の土石流堆積物の地表面を流れている.一方,左岸側では,山津波の一部が低い尾根をのり越えて,ルートCの谷にも流れ込んでいる.
坂州木頭川に達した山津波による土石流堆積物は坂州木頭川河床を上流および下流に広がっている.河床の土石流堆積物の分布から山津波の上流方向の広がりはかなり正確に推定できるが,下流方向の広がりは土石流堆積物の流失により不明である.山津波の本体は川幅180 mの河床を渡り,対岸にぶつかった山津波は道路上を上流方向および下流方向に流れている.上流方向に流れた土石流堆積物はガードレールに捕捉されて,坂州木頭川に落ち込むことなく,道路上を上流に向かって流れている(第19図).一方,下流方向に流れた山津波は符殿トンネル内に流れ込み,長さ350 mのトンネルの反対側に出ている(第20図).トンネル内には土石と共に流木や車両が流れ込み,トンネルの天井のライトを破壊している.この山津波が対岸の正面斜面および符殿トンネル上方の斜面に乗り上げたことは樹木の流失から明らかであるが,乗り上げたはずの土石流堆積物や流木がほとんど残っていないのが特徴である.坂州木頭川を渡った山津波の先端部の運動像はさまざまな流下痕跡から読み取った.
山津波が乗り上げた斜面では,樹幹を切断された樹木が分布する範囲よりもさらに斜面上方に向かって約10〜20 mの範囲に,樹皮の剥げ落ち現象や,礫の突き刺さった樹木,現河床堆積物由来の礫が分布している.山津波の真正面に当たる対岸では,平均勾配約40°の斜面を標高350 mの高さまで山津波が到達している.
山津波が乗り上げた坂州木頭川右岸側の斜面は湾曲していて,符殿トンネルを境に,トンネルの坑口に向かって右側斜面が南北方向に延び,左側斜面が東西方向に延びている.山津波が乗り上げてきた方向は,樹皮の剥げ落ちの方向や樹幹に突き刺さっている礫の方向から斜面にほぼ直交する方向であると推定される(第20図).乗り上げてきた山津波の流れの方向は,土石流堆積物の分布から推定される山津波の流れの方向と調和的である.主要な山津波の乗り上げとは別に,トンネルの坑口に向かって左側斜面では,樹幹に突き刺さっている礫の方向からは西から東への流れも読み取れる.
一方,山津波の主要な乗り上げの方向とは正反対の流れが樹木切断部のささくれの方向と流下物の樹幹への巻き付き現象から斜面全域に読み取れる.一旦乗り上げた山津波が同じ斜面を流れ下っていく引きの流れである.土石流堆積物や流木,さらには一部の橋脚を残してほとんど失われた符殿橋の流失はこの強い引きによるものと思われる.破壊された符殿橋の橋脚の鉄筋の曲がりも引きの流れの方向と一致している(第17図).
2)ルートBの山津波
ルートBの山津波は支谷の出口に近いところでルートAの山津波から分岐したもので,坂州木頭川からの比高が約50 mの尾根に乗り上げている.山津波が尾根に乗り上げたのは,支谷の谷底をそのまま下流に延ばすと尾根の稜線に続いているからである.
尾根に駆け上がった後のルートBの山津波の挙動はどのようなものであったであろうか.ルートBの山津波は尾根の樹木をことごとく根こそぎなぎ倒しているが,坂州木頭川の左岸壁に植わっている樹木にはほとんど損傷を与えていない.しかし,次に述べる現象はルートBの山津波が対岸に到達したことを示唆している.
gあるいはhの地点にあった重機運搬車とcあるいはdの地点にあったダンプカーの一台が道路上に東から西にトンネルのところまで運ばれ,その後トンネル内に持ち込まれている(第21図).これらの車両はルートAの山津波の流れによって運搬されたのなら,運搬の方向は西から東で,東から西への運搬は不可能である.しかし,ルートBの山津波なら東から西への車両運搬は可能であるだけでなく,ルートBの山津波の流れなくして,車両は東から西へは運ばれない.ルートBの山津波によってトンネルの前まで運ばれてきた車両がルートAの山津波によってトンネル内に運び込まれたものと解釈している.ただし,ルートBの山津波が坂州木頭川の河床を渡ったとは考えにくい.上述した坂州木頭川の左岸壁の樹木の破損状況に加え,右岸側の尾根に植わっている複数の樹木が地表から数mの高さで鋭利に切断されていること,ルートAの山津波より先に対岸に到達していなければならないことから,ルートBの山津波のかなりの量が坂州木頭川を跳び越えて対岸に達したと考えている.

第21図.阿津江で発生した山津波によって移動した建設重機の位置図(横山ほか,2005を修正).

3)ルートCの山津波
ルートCの山津波は,破砕帯地すべりCから発生した土石流で,ルートAの支谷(南側の小さな谷)を流れている.このルートの山津波は対岸には到達せず坂州木頭川に流れ込んでいる.
(3)山津波先端部の到達時刻の推定
山津波が乗り上げた坂州木頭川右岸斜面の直上にある符殿地区住民は8月1日23時頃に「ドシーン」や「ゴォー」といった大きな音を聞いている.また,家やガラス戸の揺れなどを体感している.
証言に共通している「大きな音」は山津波が坂州木頭川を渡ってから対岸に乗り上げるまでの音であり,「瞬間的な揺れ」は山津波が対岸に衝突したときの衝撃と考えられる.よって,山津波が対岸に到達した時刻は8月1日23時頃と推定される.
旧木沢村役場の加集一夫氏は,山津波が坂州木頭川河床に流入した地点から約500 m上流にある名古ノ瀬橋での河川水位の記録から,土石流堆積物による天然ダムの形成とその決壊の時刻を次のように推定している.河川水位の記録は,8月1日22時50分に5.89 mであったものが23時00分に6.38 m(0.49 m上昇)となり,その後同23時10分の6.38 mから23時50分の6.08 m(0.30 m下降)へと変動したことを示している.このことから,23時00分の水位上昇は土石流堆積物による堰き止め,23時10分からの水位低下は土石流堆積物からなる天然ダムの決壊によるものと解釈している.土石流堆積物による堰き止め時刻は符殿地区の住民の証言と調和的であり,山津波が到達した時刻は23時の少し前と推定される.坂州木頭川の河床勾配と波高を考慮すると,天然ダムの高さは7 mくらいになっていたものと推定される.その後起こった天然ダムの決壊は河川の越流による浸食の可能性が高い.

 

 
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