四国中央部の中央構造線活断層帯の地形・地質・地下構造
Geomorpholgy, geology and subsurface structure of the Median Tectonic Line active fault zone inthe central part of Shikoku

岡田篤正1 杉戸信彦2
Atsumasa Okada 1 andNobuhiko Sugito 2

受付:2006年6月30日
受理:2006年8月17日
* 日本地質学会第113年学術大会(2006年高知)見学旅行(H班)案内書
1.立命館大学COE推進機構(歴史都市防災研究センター)
Center for Promotion of the COE(ResearchCenter for Disaster Mitigation of UrbanCultural Heritage), Ritsumeikan University,Kyoto.603-8341, Japan.
2.名古屋大学大学院環境学研究科附属地震火山・防災研究センター 
Research Center for Seismology, Volcanologyand Disaster Mitigation, Graduate School ofEnvironmental Studies, Nagoya University.Nagoya464-8601. Japan.

概 要
中央構造線活断層帯は日本列島で最長の活断層であり,変位地形の規模も大きく明瞭である.断層露頭も見事である.1995年兵庫県南部地震(M7.3)の発生以降も,多くの調査機関や大学(研究者)が各種の活断層調査を実施してきた.とくに,ボーリング・反射法地震探査・トレンチ掘削調査などが各所で行われ,中央構造線活断層帯の性質・活動履歴・地下構造などもかなり詳しく判明してきた.こうした成果に基づいて,地震調査委員会(2003)から長期評価も公表された.四国中央部における中央構造線活断層帯の代表的な活断層地形や断層露頭などを見学するとともに,地下構造調査の成果も紹介し,活断層に関する総合的な考察を行い,残された課題や問題点などについて検討する.
Key Words
Median Tectonic Line, Active fault (zone), Tectonic geomorphology, Faultoutcrop (geology), Subsurface structure, Long-term prediction.
地形図
1:25,000 「伊予小松」「西条」「新居浜」「別子銅山」「東予土居」「伊予三島」「讃岐豊浜」「伊予新宮」「阿波池田」「辻」
見学コース
[1日目]8:00 高知大(朝倉)出発→高速道伊予小松IC→西条市湯谷口→新居浜市川口→中萩低断層崖→畑野(四電開閉所付近)→平山→阿波池田泊
[2日目]8:30 池田町白地付近の見学→池田低断層崖→昼間→三野町芝生→16:00 JR土讃線阿波池田駅解散
見学地点
Stop 1 湯谷口の断層露頭(西条市丹原町(旧丹原町)湯谷口).
Stop 2 川口の断層露頭(新居浜市大生院川口).
Stop 3 中萩低断層崖と地層抜き取り調査・トレンチ掘削調査地点(新居浜市中萩).
Stop 4 畑野付近の活断層地形と断層露頭・トレンチ掘削調査地点(四国中央市土居町畑).
Stop 5 西金川〜平山付近の活断層地形とトレンチ掘削調査地点(四国中央市金田町西金川〜半田平山).
Stop 6 阿波池田付近の活断層地形と地質(三好市池田町(旧池田町)市街地).
Stop 7 昼間の断層露頭(東みよし町(旧三好町)昼間).
Stop 8 芝生の活断層地形と断層露頭(三好市三野町(旧三野町)芝生).

1.はじめに

中央構造線は,九州地方から関東地方まで1000km以上延びる第一級の大断層であり,紀伊半島中央部より東では領家変成岩類と三波川変成岩類との境界断層として認定される.しかし,四国では領家変成岩類の南縁に沿って厚層の和泉層群(上部白亜系)が分布しており,北側の和泉層群と南側の三波川変成岩類を境する地質境界断層として中央構造線は認定される.
こうした地質境界の中央構造線,およびこれに近接して並走もしくは雁行する新旧の断層群が形成されており,中央構造線断層系を構成する(岡田,1968,1973aなど).このうち,第四紀に繰り返し活動してきた断層群は中央構造線活断層帯(系)とよばれ,明瞭な活断層地形を伴う(岡田,1970b,1973bなど).
1995年兵庫県南部地震(M7.3)の発生以降,活断層はとみに注目され,地形や地質調査のみならず,ボーリングや反射法地震探査などの調査も各所で実施され,中央構造線沿いの地下構造もかなり判明してきた.とくに,愛媛県や徳島県の活断層調査,産業技術総合研究所活断層研究センター(旧地質調査所)や大学(研究者)などによって,各種の活断層調査が行われ,活断層の性質や活動履歴の解明に向けて努力されてきた.とりわけトレンチ掘削やジオスライサーによる調査事例は倍増し,活動時期や地表近くの断層位置・構造などが詳しく解明されてきた.こうした成果をふまえて,地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003)は金剛山地東縁から伊予灘にかけての中央構造線活断層帯の長期評価を行い,大地震の発生場所・規模・時期の予測を公表した.
本見学旅行では,四国中央部における中央構造線活断層帯を対象として,代表的な活断層地形や断層露頭などを見学するとともに,主な既存研究を紹介したり,活断層調査場所を訪ねたりして,本活断層帯の地形・地質・地下構造や最近の活動および研究成果について検討を行う.以下では,前半で中央構造線活断層帯の概要をまとめ,後半で各見学地点の要点を述べる.なお,日本地質学会第98年学術大会が愛媛大学で開催された際に,中央構造線のネオテクトニクスと題するシンポジュウムが企画された.その後に,同名の現地巡検が行われ,見学旅行案内書(岡田・長谷川,1991)が作成されているが,主要な見学地の説明は一部で重複する.しかし,本見学ではその後に得られた数多くの調査成果も取り入れて,重要な地点の観察を行う計画であり,最新データを大幅に導入して本稿の解説を試みた.


2.四国の中央構造線活断層帯の概要

第一表.四国の中央構造線付近の地質層序(岡田,1972を一部改変).
 

1)地質概要(岡田・長谷川,1991を一部改変;第1図,第1表)
領家変成岩類および花崗岩類領家変成岩類は高縄半島の基部に分布している.本変成岩類は砂質,泥質,石灰質,塩基性のホルンフェルス〜片麻岩からなる.泥質のホルンフェルスから,三畳紀〜ジュラ紀の放散虫化石が発見されている(鹿島・増井,1985).白亜紀後期の花崗岩類は四国の瀬戸内海に面した高縄半島と讃岐半島の主部を占めて広く分布している.大部分は,領家変成作用に関与した領家花崗岩類である.領家花崗岩類は中〜粗粒の花崗閃緑岩を主体とし,片麻状構造が発達しているところもある.領家変成岩類および花崗岩類は南縁部で和泉層群に不整合に覆われている.
三波川変成岩類三波川変成岩類は愛媛県の佐田岬半島から徳島市にかけて,中央構造線の南側に分布している.分布幅は南北方向に最大30kmに達し,四国の脊梁山地を形成している.三波川変成岩類は,主として泥質片岩,塩基性片岩および砂質片岩から構成されている.四国中央部から東部にかけて泥質片岩が,四国西部では塩基性片岩(緑色片岩)が広く分布している.三波川変成岩類は,波長数kmの東西性の複背斜や複向斜を随伴している.中央構造線に隣接する三波川変成岩類は,複背斜の北翼に当たり,片理面は一般に東西走向であり,北傾斜している.
和泉層群白亜紀最後期の和泉層群は讃岐山脈から松山南西部まで幅10数kmの細長い地帯に,領家帯と三波川帯とに挾まれて分布している.本層群は領家変成岩類および領家花崗岩類を不整合に被覆している.不整合面付近には,礫岩あるいは,石英長石質砂岩が細長く東西方向に分布している.この基底礫岩相の南には,泥岩を主体とする泥岩相,さらにその南には砂岩・泥岩の互層を主とするタービダイト相が分布している(例えば,須鎗・阿子島,1973).和泉層群は東にプランジした軸をもつ向軸構造を形成し,各岩相は東が開いた馬蹄型の分布をなす.向斜軸は和泉層群分布域の南部にあり,中央構造線はその南翼を切っている.和泉層群では,東ほど時代の新しい地層が堆積し,かつ東ほど埋没続成深度が浅くなり,これは向斜構造と調和している(西村,1984).和泉層群中の地層の擾乱は小さく,一般に整然とした成層構造がみられる.ところが,讃岐山脈南麓の丘陵性山地(切幡丘陵)には著しい擾乱を受けた和泉層群が分布する.これらは,中央構造線の断層運動による破砕帯と考えられていたが,更新世前期〜中期に発生した重力滑動岩塊の可能性が指摘されている(長谷川,1988,1990).久万層群久万層群は後述の石鎚層群と共に石鎚山第三系を構成し,石鎚山脈を取り巻くように分布している.大部分の地域では三波川変成岩類を,一部では和泉層群を不整合に被覆している.本層群は始新世中期の二名層と始新世後期の陸成の明神層とに区分され,両者は不整合関係にあるとされてきた(永井,1972).しかし,両層は完全に上下関係にあるのではなく,同時異相のところもあるようである(甲藤・平,1979;木原,1985).二名層は外帯の三波川変成岩類からの砕屑物,明神層は主として内帯の和泉層群などからの砕屑物を源岩とする礫岩,砂岩および泥岩からなる.久万層群はほぼ水平であり,褶曲構造は形成されていない(高橋,1986).久万層群基底面の高度は分布域東端の瓶ヶ森付近では,約1,800mに達するが,西端に近い砥部町岩家付近では約100mとなる.これは,堆積以後に東高西低の地殻運動を受けたと解されている.西条市市之川に分布する,いわゆる「市之川礫岩」は明神層に対比されている(高橋,1981).

 
 
第1図.A:北四国における活断層と主要地質構造線分布図(岡田,1973b).基図は岡山(1953)による接峰面図で等高線間隔は100m.B:北四国の地質略図(岡田,1973b).地質調査所発行の20万分の1地質図などを編集し簡略化した.1:沖積層,2:更新世層,3:瀬戸内火山岩類(中新世〜鮮新世),4:黒雲母安山岩,5:石鎚層群(両輝石安山岩),6:石鎚層群,7:久万層群,8:四万十層群,9:和泉層群,10:外和泉層群,11:ジュラ紀層,12:二畳(ペルム)紀〜三畳紀,13:かんらん岩〜蛇紋岩,14:御荷鉾緑色岩類(斑レイ岩〜角閃岩),15:領家帯花崗岩類,16:領家変成岩類,17:三波川変成岩,18:断層,19:活断層.

石鎚層群ほか石鎚層群は久万層群を不整合で覆うとともに,松山市南方では和泉層群を不整合に被覆し,中央構造線を覆って内帯と外帯の両域に分布している(永井・堀越,1953).また,中央構造線の断層破砕部に貫入している酸性〜中性火山岩類も本層群に対比されている(堀越,1964).火山砕屑岩類としては,凝灰岩および凝灰角礫岩,火山角礫岩などがあり,基底部に礫岩を伴うことがある.これらは植物や淡水性の魚類化石を産出する湖成層であり,流紋岩−安山岩質の大規模な火砕流堆積物の存在も明らかにされている(吉田,1970).火山岩としては,流紋岩,斜方輝石安山岩,黒雲母安山岩,讃岐岩(サヌカイト),讃岐岩質安山岩などがある.中央構造線の断層破砕部に貫入している酸性〜中性火山岩類から約15MaのK-Ar年代が報告されている(田崎ほか,1990).西条市域以西の中央構造線に貫入した酸性〜中性火山岩類は貫入および冷却後には,顕著な断層運動を受けていない.
第二瀬戸内累層群中央構造線に隣接する平野の縁辺部では,メタセコイア植物群によって特徴づけられる鮮新世後期〜更新世前期の河成〜湖成層が分布し,丘陵を形成している.これらは,松山平野では郡中層,道前平野では岡村層,徳島平野では森山(粘土)層とよばれている(Saito,1962;高橋,1958;須鎗ほか,1965).また,メタセコイア化石は産出しなかったが,これらの地層と密接に関連し,同じく丘陵を構成する扇状地および土石流堆積物が分布している.これらは,八倉層(松山平野),大谷池礫層(道前平野),土柱(礫)層(徳島平野)とよばれている.最近になり,これらの地層中からメタセコイアの産出,あるいは火山灰層のFT年代が報告され,更新世前期(〜中期)の地層と判明してきた(山崎,1985;水野,1987;阿子島・須鎗,1989).すなわち,平野の縁辺部には鮮新世後期〜更新世中期にわたる第二瀬戸内累層群の相当層が普遍的に分布している.これらの第二瀬戸内累層群は沖積平野の地下にもぐり,瀬戸内海の海底下にも広く分布している(斎藤ほか,1972;緒方,1975).
段丘堆積物平野の周辺部には,砂礫層からなる扇状地性の河成段丘面群が形成されている.これらは一般に高位,中位,低位の各段丘に区分される(岡田,1973a).そして,高位段丘が多摩面(15〜50万年前)に,中位が下末吉面(10〜15万年前)に,低位が武蔵野面(6〜8万年前),立川面(1.5〜3万年前)等に概ね相当すると考えられた.広域火山灰などによって時代が確認された段丘は従来少なかったが,近年その発見が各所で続いており,低位段丘については年代がほぼ確立してきた(岡田・堤,1990).
高位段丘堆積物は分布の幅が狭い.本層は地表付近には赤色風化殻が形成され,クサリ礫を多く含んでいる.中位段丘堆積物は普遍的に分布し,地表付近に薄い赤色風化殻が形成され,全体として赤黄色を呈し,クサリ礫も含む.低位段丘堆積物は現河床沿いや沖積平野の周辺部に広範囲に分布する.全体に黒褐色〜黄褐色を呈し,新鮮な礫からなり,風化をほとんど受けていない.段丘面は堆積原面をよく残し,開析度が低い.

 

2).中央構造線活断層帯の活動史
四国北西部では三波川帯と領家帯(和泉層群を含む)とを境する地質境界の中央構造線と,これにほぼ並走する活断層があり,これらは中央構造線断層帯を形成している.地質(構造)から判読できる活断層帯の発現時期や運動様式を以下にまとめる.
石鎚層群の火山活動中(中新世中期)に,既存の割れ目である地質境界の中央構造線に沿って,安山岩質の岩脈が貫入した.これは破砕をほとんど受けておらず,しかも,併走する活断層帯(伊予・郡中・川上・小松・岡村の各断層)にはほとんど貫入していない.したがって,地質境界の中央構造線は砥部時階の運動までにほぼ形成され,以後の活動は停止している.一方,活断層帯は岩脈の貫入後に位置をやや異にして誕生したとみなされる(岡田,1973b,2004).
四国山地北西部に分布する小起伏面(皿ヶ嶺面や犬寄面など)は,鮮新世後期頃までに中央構造線や石鎚層群を切って形成されているが,この形成期に郡中層が堆積したとされる(永井,1973).すなわち,全般的に地殻運動の緩やかな時代とされている,中新世後期から鮮新世にかけて,中央構造線の活動はほとんどなく,この地殻運動の休止期間に平坦化が進行したとみなされる(岡田,1973b,2004).

3).活断層の分布形
四国山地北麓や讃岐山脈南麓域では,地質境界の中央構造線のほかに,これにほぼ平行ないし雁行状に配列するいくつかの断層が分布する.これらの大半は少なくとも第四紀後半でも右ずれが卓越した活断層であり,断層線の走向や断層面の傾斜もほとんど同じ傾向を示す.こうした一連の右ずれ断層群を中央構造線活断層帯とよぶ(岡田,1973b)が.これに属する断層も,変位地形が明瞭で第四紀後期にも変位を繰り返している断層と,変位地形が不明瞭で第四紀後期には変位が少ないか,認められない副次的な断層とに分けられる.前者に属するものとして,西方より東方へ,伊予・重信・川上・岡村・石鎚・畑野・池田・三野・井口・父尾・神田・鳴門南などの活断層があり,変位が各々の活断層へ受け継がれて連なる.これら活断層帯全体として,N75。Eの方向へ延び,変位速度もほぼ等しい.
各活断層の平面形は直線状ないし多少湾曲を伴う場合も滑らかな曲線を画いて連続する.しかし,活断層の両端では,一般走向に対して多少方向を変えることが多く,東西ないし北東偏りに曲がる傾向がある.雁行状に配列する活断層が,次の活断層へ移る場所,例えば,三好市三野町芝生(旧三野町芝生)や美馬市美馬町(旧美馬町)東端の坊僧山,美馬市脇町(旧脇町)北西方などでは,北東方向へ偏って延びる分岐断層が数本認められる.こうした接合部付近では各断層に沿った横ずれ地形はあまり明瞭でなく,むしろ縦ずれが卓越するようである(岡田,1970b,1973a;後藤,1998;後藤・中田,2000).変位地形が不明瞭なものとしては,三野町芝生の芝生衝上断層・土柱断層・切幡南・引野などの断層がある.南側へ凸状に湾曲したり,断層線がかなり湾曲したりしている.多くの露頭では,北側の山地から南側へ突き上げた逆断層状を呈する.また,活断層線の北側を併走する活断層がいくつかあり,讃岐山脈南麓では箸蔵断層(池田断層の北側)や鳴門断層(鳴門南断層の北側)が挙げられるが,これらの変位量は相対的に小さく,第四紀後期では変位が少ない副次的な断層とみなされる.愛媛県東温市(旧川内町)南部から西条市丹原町湯谷口(旧丹原町湯谷口)にかけて中央構造線は一般走向に対して大きくS字状に約10km湾曲している.この屈曲に対して,小林(1950)は桜樹屈曲と名付けたが,犬寄峠付近でも規模はやや小さい約3kmの湾曲が認められる.活断層としての川上断層もここで大きく湾曲する.川上断層の存在とその湾曲は新しい応力場のもとで既存の屈曲した中央構造線(の深部の剪断面)に規制されて,一部では新しい破断面を,一部では古い断層面を利用して形成された.この付近での最大圧縮軸は屈曲部の川上断層の走向とほぼ直交するので,純粋な逆断層型の運動が期待されるが,以西の伊予断層や川上断層西半分での右横ずれ運動の影響を受け,右横ずれの卓越した逆断層120 岡田篤正・杉戸信彦Supplement, Sept. 2006となっている.高縄山地側では西方から移動してきた物質が屈曲部で詰まるような状態となり,高縄山地の曲隆がもたらされたと考えられる.この物質過剰による曲隆が,山地東縁の川根断層や北縁を円弧状に取り巻く断層をも随伴させたとみなされる.また,中央構造線以南では,石鎚山脈部が右横ずれ運動の累積によって圧縮されるので,より隆起する位置に当たるとみられる(岡田,1973b).
前述したように,桜樹屈曲部以西の中央構造線沿いでは,石鎚層群に相当する火山岩類が噴出・貫入している.これらは時には地質境界の中央構造線を越して分布するが,主な分布は活断層帯以南である.この時の噴出・貫入の多少や隆起量などが,中央構造線の屈曲をもたらした可能性も指摘されている(池田ほか,2003;長谷川・大野,2006).
上述のように,桜樹屈曲の概形は砥部時階の後で活断層運動の発生前,すなわち中新世から鮮新世までの期間に形成されたとみなされる.また,桜樹屈曲の成因は形状からみても,屈曲部だけの隆起とみるより,それ以東の石鎚山脈部が以西に比べて相対的に隆起し,北斜する中央構造線の更に深部が削剥低下により露出して,大きく湾曲した.石鎚山方向に急上昇するような運動は石鎚山第三系(久万層群と石鎚層群)の分布高度にも明瞭に現れている(岡田,1972,1973b).

4).大規模地すべりと断層との関係
中央構造線沿いは,断層崖斜面を伴う山地と平野との地形境界をなし,斜面の基部には幅広い断層破砕帯が形成されている.また,活断層運動に伴って,強震動が生成され,上下変位も引き起こされるので,地すべりが形成されやすい地形・地質環境となっている.讃岐山脈南麓では,和泉層群からなる地すべり移動地塊が山麓部に数多く見られ,低角度の逆断層状の露頭が観察される.また,一部は活断層を乗り越えて平野側へ移動し,第四紀堆積物に挟まれたり,覆ったりしている.比較的小規模の地すべりは各所に見られ,枚挙に暇が無いので,ここでは省略し,規模の大きな地すべりについてのみ検討する.
三好市池田町(旧池田町)シンヤマにおける事例は径約1kmに達し,1集落を乗せるほど規模も大きい.山麓の斜面物質・土石流堆積物・古吉野川河床礫を取り込みながら南側へ滑動し,吉野川を一時的に堰き止めた(岡田,1968).三好市池田町白地では中位段丘2面を被覆し,シンヤマでは約5.7万年前の材を含む堆積物に地すべり物質(和泉層群)がのし上げる.地すべり移動地塊上面の南側山麓部のみに赤色土壌を乗せるが,これは南側上方斜面からの匍行による被覆とみなされる.移動地塊上面の地形はあまり開析されておらず,ここでは赤色土壌を乗せないので,約5.7万年前頃に発生したと考えられる(岡田,2004).
吉野川北側の讃岐山脈南斜面には,馬場・洞草・西山の集落を乗せる地すべり地形が見られる(岡田,1968;後藤ほか,1999a)が,東部の西山のものが吉野川近くまで徐々に南斜し,滑落崖を伴う輪郭が明瞭な移動体をなす.シンヤマの地すべり物質である和泉層群は一部が角礫化し,数多くの開口節理を伴い,全体として成層構造を保存しているので,比較的緩やかな滑動であったとみなされる.したがって,西山を起源とする地すべりと認定され,その場合流下後に約1.5kmの右横ずれ,数10m以上の北上がりの断層変位を受けたと推算される.長谷川(1992,1999)はこの地すべりの年代がさらに古く,発生場も東方の鮎苦谷川出口とみなしているが,地形・地質の情報からみて,上に述べた見解が妥当である.また,讃岐山脈東部南麓に当たる阿波市(旧阿波町)の土柱地域や旧市場町・旧土成町域の切幡丘陵にも大規模な地すべり移動岩体を指摘している.しかし,これらは活断層の平面的な分布形や地質配置からみて,別の見解も可能であるが,池田の事例は典型例で貴重である.

5).断層面の傾斜
浅部讃岐山脈南麓では,北側から南側への低角度の衝上断層が古くから記載・報告されてきた(今村ほか,1949;中川・中野,1964a,b;槇本ほか,1968,1969).それらのうち,表層で観察された露頭の一部では,地すべりや匍行による断層面や破砕帯の低角度化によるものがある(岡田,1968,1970b).また,須鎗ほか(1965)で指摘された事例のように,活断層に近接した場所では,小規模の低角度衝上状の断層が観られることがある.しかし,断層露頭の多くやトレンチ掘削調査では,ほとんどの場所で垂直ないし北側へ高角度で傾斜した断層面が観察される(ただし,熊谷寺東南トレンチでは,最新期の断層面でも北側へ傾斜していたが,この場所は活断層の屈曲部近くに位置している).
深部讃岐山脈南麓域から石鎚山脈北麓・松山平野域で,P波による反射法地震探査が数ヶ所で実施されてきた.以下,主な成果を西側から紹介する.愛媛県(1999)が実施した松山平野中部(重信断層の西端部)域では,ほぼ直立する断層面が約1km以浅の部分で求められている.
西条市宮の下付近の中位段丘面が南側へ逆傾斜することから,その北縁に活断層が推定されている(岡田,1973;水野ほか,1993;中田ほか,1998).一方,これを横切る西条市新兵衛から伊予氷見北方に至る長さ0.6kmの南北測線(愛媛県,1999)では,川上断層北東延長部や宮の下北縁の推定断層は探査された断面に断層を示唆する構造が明瞭には現れていない.
堤ほか(2003)は新居浜市西部で岡村断層と中央構造線を横切るP波反射法地震探査を実施し,約35゜Nで傾斜する地質境界の中央構造線を明瞭に捕えた.この北傾斜する断面は岡村断層の下でも深部へ延長するので,次の2つの解釈が出された.1)岡村断層は地質境界断層から地下約1kmで分岐し,高角度となって地表に達する.2)岡村断層は地下深部まで高角度であり,地質境界断層を地下約1kmで切断・変位させているが,上下変位量が小さいので,反射面には明瞭な食違いとして認定できない.どちらの解釈が妥当かはなお未解決である.伊藤ほか(1996)は,讃岐山脈中部を南北方向(徳島県美馬市脇町の曽江谷川沿い)に横断して,P波反射法地震探査を実施した.この探査結果によると,深さ約5km以浅では地質境界の中央構造線は30〜40。Nで傾斜していると推定されるが,地表で追跡される活断層(父尾断層)直下の解像度はあまりよくない.讃岐山脈東部南縁では,佃・佐藤(1996)により反射法弾性波探査が実施され,断層面の傾斜は深さ500m以浅では北傾斜約40。と推定される.
さらに東方の鳴門市里浦町〜撫養町でのP波測線(長さ1.5km)では,北側傾斜の断層が推定される.鳴門市段関付近を南北方向に横切るS波測線とボーリングで求められた浅部(70m以浅)では,約70。Nで傾斜する活断層面(鳴門南断層)が確認され,これは地質境界の中央構造線にほぼ相当する(森野ほか,2001).
以上述べてきたように,地質境界の中央構造線は北側傾斜であるが,高角度から30〜40。Nとやや低角度とみなす見解がある.場所や手法,探査時期などによる相違もあり,現段階では断層面の角度を一義的には決められない.とくに活断層と地質境界の中央構造線との関係も場所による相違が顕著であり,詳細な構造解明は今後の重要な課題として残されている.

6).断層破砕帯
地質境界の中央構造線は幅10m以上に達する断層ガウジ帯とその両側に広がる破砕帯を伴う.結晶片岩類に由来する破砕帯は青灰色〜灰白色を呈し,縞模様が発達して粘土化が顕著である.しかし,和泉層群では黒褐色で断層角礫やブーダン構造を伴い,断層ガウジは相対的に幅が狭く,粗粒物質で構成される.両者は見かけ上すぐに区別され,鉱物組成も大きく異なる.
このような断層ガウジ・破砕帯の接触面は,平面でも断面でも両者が指交(interfinger)関係で接したり,紡錘状〜岩脈状に取り込まれたりすることが.三野町芝生や美馬市脇町東田上などで観察された.
活断層や中央構造線を横断する方向で,断層破砕帯の全てが観察されることはまず無いので,場所による相互の比較は容易ではない.限られた露頭での観察であるが,断層線が屈曲・分岐し,他の断層へ乗り換える場所(例えば,三好市三野町芝生北部)で,とくに顕著な断層破砕帯が発達している.

7).断層面におけるすべりの方向
三好市池田町佐野瀬戸谷では,断層破砕帯に取り込まれた材が断層面にほぼ平行に延びていた(岡田,1968).また,阿波市井出口では,断層破砕帯に取り込まれた材が断層面に斜交し切断され,材面にほぼ水平の明瞭な条線が何本も観察された(岡田,1970b).阿波市土柱においては,破砕帯に落ち込んだ礫の表面にほぼ水平の条線が観察された(岡田,1970b;岡田,1992).これらの現象はいずれも,水平変位成分が卓越していることを示す.したがって,讃岐山脈南麓域では断層運動は北上がりで右横ずれを示唆する.

8).第四紀後期の活動性
平均変位速度岡田・堤(1997)は,岡田(1970a,b)が求めた阿波市市場町の父尾断層による段丘崖の水平変位量と段丘崖の形成年代を再検討し,右ずれ変位量を約50m,その形成年代を約8,000年前とした.これらの数値から右横ずれ変位速度を求めると約6mm/yrとなる.また,岡田(1970b)は,美馬市美馬町の三野断層で,形成年代を約2.5万年前よりも新しいと推定した扇状地面を開析する河谷の右横ずれ屈曲量を200〜230mとして,右横ずれ変位速度は8〜9mm/yrに達するとした.さらに,岡田(1968)が14C年代値をもとに推定した段丘礫層下の不整合面の形成年代(約3万年前)と,断層による右横ずれ変位量(約200m)を用いて,三好市池田町の池田断層における右横ずれ変位速度を7mm/yr以上とした.
岡村断層のトレンチ調査は西条市飯岡地区で数回にわたって実施されたが,壁面に現れた礫層中の特異な礫の供給源を指標として,Tsutsumi et al.(1991)は右横ずれ変位速度を5〜8mm/yrと求めた.岡田ほか(1998)はその後に行われた調査も取り入れて再考察し,右横ずれの変位速度を5〜6mm/yr程度と見積もった.1回の横ずれ変位量岡田・堤(1997)は阿波市上喜来の父尾断層付近で表土を剥いだ自然堆積層のほぼ上面を写した写真を分析し,断層を挟んで約6m弱右横ずれ変位しているとし,これを最新活動時の横ずれ変位量とした.また,Tsutsumi and Okada(1996)は,同地点における水田の畦の屈曲を断層活動によるものとして,その屈曲量から最新活動に伴う父尾断層の右横ずれ変位量を6.9ア0.7mとした.また,同地域で別の畦で12.9mの横ずれが認められることについて,これが最新活動及び1回前における活動との2回分の変位が累積したと解釈した.
上述の岡村断層飯岡でのトレンチ調査では,断層の南北を挟んで地層中の特異層を比較して,最新活動期に約5.7mの右ずれが認定された(Tsutsumi et al.,1991).最新活動時期当域の活断層帯は有史以後に大地震を伴った変位の記録がないとみられていた(岡田,1973b,1980など).しかし,阿波市上喜来のトレンチ掘削調査で16世紀頃の活動が指摘されて以来(岡田ほか,1991;岡田,1992;Tsutsumi and Okada,1996;岡田・堤,1997),中央構造線活断層帯の詳しい調査が実施され,同じ頃に活動した地質学的な証拠が各地で判明してきた.たとえば,伊予断層の伊予市市場大道寺トレンチでは14世紀以降(後藤ほか,2001),重信断層では後藤ほか(1999b)および愛媛県(1999)の調査をまとめると,11世紀以後に活動したとされる.西条市土居町で行われた川上断層北東部でのトレンチ掘削調査からも,飛鳥時代から江戸時代までの間に活動したとされる(堤ほか,2000).
後藤ほか(2003)は畑野断層において3次元的なトレンチ調査を実施し,最新活動時期が西暦1520〜1660年(暦年較正:ア1σ)または西暦1480〜1670年(ア2σ)と求めた.すなわち,16世紀を挟んだ140〜190年間に最新活動が限定されるとした.
岡田(2006)は古地震学的調査と歴史地震資料の発掘を総合的に判断して,中央構造線活断層帯の最新活動時期が1596年頃とみなした.すなわち,9月1日四国中央部122 岡田篤正・杉戸信彦Supplement, Sept. 2006に最初の活動(慶長伊予国地震)があり,9月4日に別府湾で慶長豊後地震が発生し,9月5日に四国中央・東部から淡路島東部を経て,有馬−高槻断層帯へ至る活断層が連動的に動いたと推定した.有馬−高槻断層帯は慶長伏見地震の震源断層であるが,この時に四国の中央構造線も活動した可能性を指摘した.個々の地震の活動範囲・地震規模などの詳細は今後の課題とした.
最新活動以前の活動時期と活動間隔地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003)は中央構造線活断層帯の長期評価を公表している.以下の2項目(活動時期と活動間隔・長期評価)についてはこれを要約して解説する.鳴門南断層から石鎚断層に至る区間の1回前の活動は概ね2,000年前頃であったと推定される.さらに,2回前の活動時期は少なくとも板野断層の川端地点などで認められるが,この時の活動がどの範囲まで及んだかの特定は困難である.鳴門南断層から石鎚断層では,父尾断層で右横ずれ変位速度が6mm/yr,1回の活動に伴う右横ずれ変位量が6〜7mと求められ,平均活動間隔は約1,000〜1,200年となる.一方,本区間の最新活動は16世紀頃であり,1回前の活動が約2,000年前頃であることから,この間の活動間隔は1,500〜1,600年となる.このように2つの方法により求められた数値は整合しないが,前者は用いた平均変位速度及び1回の活動に伴う変位量の数値の信頼度が高いとはいえず,一方,後者も過去2回の活動時期から得られた活動間隔であり,信頼度が高くない.したがって,ここでは両者の数値から,本区間の平均活動間隔を約1,000〜1,600年とする.
長期評価鳴門南断層から石鎚断層に至る区間の平均活動間隔は約1,000〜1,600年,最新の活動以後の経過時間は約400〜500年である.したがって,平均活動間隔に対する現在における地震後経過率は0.3〜0.5となり,地震調査研究推進本部地震調査委員会(2001)に示された手法によると,今後30年以内,50年以内,100年以内,300年以内の地震発生確率は,それぞれ,ほぼ0〜0.3%,ほぼ0〜0.5%,ほぼ0〜2%,0.03%〜20%となる.また,現在までの集積確率は,ほぼ0〜0.2%となる.


3.見学地点の説明

Stop 1 湯谷口の断層露頭(中央構造線・川上断層)[地形図]1/2.5万「伊予小松」,中田ほか(1998):都市圏活断層図 1/2.5万「西条」
[位置]愛媛県西条市丹原町(旧丹原町)湯谷口

第2図.湯谷口付近の地形・地質(岡田作成原図).基図は丹原町作成1:2,500地形図.等高線間隔は2m.1:沖積谷,2:低位段丘面,3:中位段丘面,4:中位−高位段丘面(切断曲流跡),5:和泉層群,6:川上断層と露頭,7:中央構造線と露頭.
第3図.湯谷口の中山川河床でみられる中央構造線の地質断面(岡田,1972を修正).位置は第2図のLoc.1〜4.

[解説]西条市丹原町湯谷口には中央構造線の見事な断層露頭があり,天然記念物として保護されている(第2図のLoc.1〜3;第3図;Saito,1962).露頭は中山川の河床両岸にある.ここでは南側の結晶片岩類と北側の和泉層群が断層で接し,接触部には幅5〜6mの変質両輝石安山岩が岩脈として貫入している.そのK-Ar年代は約21Maと測定されている(田崎ほか,1990,1993).岩脈の上・下面の断層面は走向N70〜80。E,傾斜25〜35。Nである.断層下面沿いには幅数10cm以下の断層ガウジ〜破砕物質がみられるが,それはごく軽微であり,しかも固結している.また下盤の結晶片岩はほとんど破砕や擾乱を受けていない.一方,上盤の和泉層群の破砕が著しく,10数m北方まで断層角礫帯となっている.
この露頭の下流約80mの中山川左岸には,南側の和泉層群断層破砕帯と北側の新期礫層が接する断層露頭があった(第2図のLoc.4,第3図;岡田,1972;岡田・長谷川,1991ほか).この露頭は川上断層のトレース上に位置する.断層北側の礫層のうち,下位の礫層は和泉層群の亜角〜亜円礫からなる扇状地礫層で,やや固結している.こうした岩相からみて,中位段丘礫層あるいはそれよりやや古いものと推定される.上部には厚さ数m以下の沖積礫層が不整合状に分布する.含まれる礫の種類は現河床の礫層とほぼ同じである.この沖積礫層も明らかに断層変位を受け,偏平礫が直立し,断層ガウジが礫と混在する.断層面は走向N74。E,ほぼ垂直である.断層ガウジ帯幅は5〜6mで,それ以南には層理が乱された和泉層群が中央構造線の露頭までみられる.この断層露頭は1980年代の終わりごろまでみられたが,コンクリート護岸壁が建設され,現在では観察できない.
しかし最近の洪水で河床が削られ,下流側延長部が広く観察できるようになった(森野ほか,2002).ここでは幅数10cmの礫層部分(偏平礫の直立帯)がN74。E方向へ河床面で長く認められる.礫の長軸が水平に近く,横ずれ変位の卓越が示唆される.前者の地質境界の露頭で観察される断層面は北傾斜である.したがって,後者でみられるほぼ垂直な断層面とは地下浅所で合流するはずである.


 

Stop 2 新居浜市川口の断層露頭(石鎚断層)
[地形図]1/2.5万「別子銅山」,堤ほか(1998):都市圏活断層図 1/2.5万「新居浜」
[位置]愛媛県新居浜市大生院川口

第4図.中萩低断層崖付近の地形(岡田,1973bに追記).上図:岡村断層に沿う中萩低断層崖の立面形(村田,1971,一部改変).影部分が低断層崖.下図:中萩断層崖付近の詳細地形図(岡田,1973b).等高線は1:5,000国土基本図からを抽出したもので間隔は5m.間隔2.5mの間曲線も抽出.
第5図.川口の小河谷川谷壁にみられる断層露頭(岡田,1973a).位置は第4図のLoc.1.

[解説]この断層露頭は,新居浜市大生院川口の小河谷川山麓出口左岸・右岸にあり,石鎚断層のトレース上に位置する(第4図のLoc.1,第5図).この付近では中央構造線自体が活動的であり,石鎚断層とよばれる.露頭下部に幅約2mほどの断層ガウジが見られ,安山岩質岩脈が破砕された灰白色の粘土状物質として含まれる.低位段丘礫層も明らかに切断されているが,西側の低位段丘面には低断層崖は認められない.断層面の走向はN75〜85。E,傾斜は35〜45。Nであり,断層面の一部には35。東下りの条線が認められる.南岸や右岸にみられる露頭でも同様のことを観察できる(岡田,1973a).この下流数10m付近には,細粒でやや固結した砂礫層(岡村層相当)が段丘礫層下に不整合関係で露出している.これらの露頭は崩落土砂で被覆されたり,侵食で露出したりして,随時状況が異なる.


 

Stop 3 新居浜市中萩低断層崖と各種の調査地点
[地形図]1/2.5万「新居浜」,堤ほか(1998):都市圏活断層図 1/2.5万「新居浜」
[位置]愛媛県新居浜市大生院岸ノ下・萩生・中萩
[解説]中萩低断層崖(岡村断層) 新居浜市萩生〜中萩には,見事な低断層崖(中萩低断層崖)が約3kmにわたって連続する(第4図).この低崖地形は辻村・淡路(1934)によって最初に指摘された.その後も,永井(1955),Kaneko(1966),村田(1971)らによって低断層崖の検証や扇状地面の分類がなされ,いずれも開析扇状地面を切断する低断層崖と認定されている.この低断層崖は岡村断層を構成する代表的な変位地形で,石鎚断層の北側1.5kmを並走する.
この付近には石鎚断層崖下に発達した合成合流扇状地がみられ,その北端近くを中萩低断層崖が切断している.この北側に沿っては沖積扇状地群が分布し,低断層崖の南北両側で地形面が異なる.中萩低断層崖では古い段丘面ほど高い位置にある(第4図上図).それらの比高を列記すると,沖積面を切断するもので3m,低位段丘下位(L2)面で6m,低位段丘上位(L1)面で13〜14m,中位段丘面で23mである.北之坊阿弥陀寺(第4図のLoc.2)の北側での低断層崖は低位段丘(L1)面で比高10〜11m,その北東側では約14mである.北之坊の西側の開析谷基部では,L1面構成層の中(地表下約6.5m)に泥炭層(層厚10〜15cm)が挟まれている.その14C年代値は,23,400ア750yrBP(GaK-3368)と27,040+1,040-920yrBP(HR-543)である(岡田,1973a;岡田・堤,1990).この試料の花粉分析では草地的な環境が示唆され,古気候は温帯から冷温帯と考えられる.これらの資料から,L1面構成層は最終氷期最寒冷期(2万数千年前)頃に形成されたとみなされる.したがって,この付近にひろがるL1面を基準とすると,比高最大16mで,平均上下変位速度の最小値は0.7mm/yr程度と求められる.岸ノ下地区地層抜き取り調査・トレンチ掘削調査の結果(岡村断層) 岸ノ下付近の低断層崖基部の沖積面上で,地層抜き取り調査(後藤ほか,2001)と2つのトレンチ掘削調査(愛媛県,1999)が実施された(第4図のLoc.3).
この付近では,中萩低断層崖は小谷によって開析されて南側にやや後退しているが,その谷底面にも比高2.2〜2.4mの低断層崖がみられる.この低断層崖東方延長部の谷底東端でジオスライサーによる地層抜き取り調査が実施された(後藤ほか,2001).この後に行われた岸ノ下西トレンチ(愛媛県,1999)のすぐ東側である.岸ノ下東トレンチ(愛媛県,1999)は岸ノ下西トレンチの約80m東方に位置する.

第6図.岸ノ下地区地層抜き取り調査の結果(後藤ほか,2001).位置は第4図のLoc.3.
第7図.A:岸ノ下西トレンチの西壁面(愛媛県,1999),B:岸ノ下東トレンチの東壁面(愛媛県,1999).位置は第4図のLoc.3.A・Bの断層南側には岡村層が露出している.

地層抜き取り調査では,幅1.3m,長さ3m,厚さ0.15mのジオスライサーによって地層断面が3枚得られた(第6図;後藤ほか,2001).その結果,ほぼ直立する4条の断層が認められ,16世紀以後に最新活動があったと推定された.
愛媛県(1999)は岸ノ下西トレンチ掘削調査を実施して,南に高角度で傾斜し,南側隆起の数条の断層を確認した(第7A図).これらの断層は耕作土直下の地層まで変位を与え,少なくとも3回の活動が認定された.すなわち,最新活動時期は960〜1,090yrBP(9世紀以後14世紀以前),1回前の活動時期は2,230〜4,530yrBP(約5,300年前以後約2,200年前以前),2回前の活動時期は4,910yrBP以前(約5,000年前以前)と求められた(カッコ内の値は地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003)による暦年補正後の値).
さらに愛媛県(1999)は岸ノ下東トレンチ調査を実施して,南に高角度で傾斜し,南側隆起を示す断層を,西壁面に1条,東壁面に2条確認し(第7図A),沖積層中に少なくとも3回の活動を解読している.すなわち,最新活動時期は760〜1,820yrBP(2世紀以後),1回前の活動時期は2,040〜8,190yrBP(約9,700年前以後1世紀以前),r2回前の活動時期は8,530〜8,600yrBPと求められた(カッコ内の値は地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003)による暦年補正後の値).
以上述べたように,岸ノ下地区では地層抜き取り調査と岸ノ下西トレンチ掘削調査による最新活動時期とは整合しない.しかしながら,両調査地点は非常に近接しており,各地層の層相も類似することから,別の活動を捉えているとは考えにくい.両地点の最新活動は同時に発生したものであり,年代値の矛盾は測定された年代値の誤差や採取された層準の相違等によると考えられる.地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003)は,両地点から得られた最新活動の年代値を総合して,岸ノ下地点における最新活動時期は9世紀以後であり,それより古い活動として約5,300年前以後約2,200年前以前と約5,000年前以前の2つの活動が認められるとしている.


 

Stop 4 四国中央市土居町畑野付近の活断層地形と断層露頭・トレンチ掘削調査地点
[地形図]1/2.5万「東予土居」,堤ほか(1998):都市圏活断層図 1/2.5万「新居浜」
[位置]愛媛県四国中央市土居町畑野(四国電力東予開閉所付近)

第8図.上野〜畑野付近の地形・地質(岡田,1973aを一部改変).等高線は1: 5,000 国土基本図から抽出したもので間隔は10m.
第9図.畑野付近の地形・地質断面図(南北方向)(岡田,1985を一部改変).
第10図.畑野の浦山川左岸にみられる断層露頭(平面図)(松田・岡田,1977).位置は第8図のLoc.2.

[解説]活断層地形(畑野断層・石鎚断層) この付近(四国中央市土居町(旧土居町)上野〜畑野)における畑野断層沿いの断層鞍部や横ずれ尾根・河谷は,中央構造線活断層帯の中でもとくに明瞭である(第8,9図).丘陵性台地(段丘)を横切る河谷では,断層線上で系統的な右横ずれが認められる(岡田,1973a).かつて連続していたと思われる河谷を,いろいろな可能性を考慮して断層線を挟んだ下流側に求めてみると,第8図に英字で記したように推定される.畑野断層では,A−A'・A''・B−B'・C(C)−C',D−D',E−E'と河谷の系統的な右横ずれがみられ,尾根筋の連続でもほぼ同様の屈曲が認められる.これらから,平均150〜200mの右ずれ量が求められる.畑野断層の西方への追跡は不明瞭となるが,東方の浦山川左岸では,低位段丘(L3)面や沖積段丘(L3〜L4)面が上下方向に4.5m,2.4m切断されている(岡田,1973a).
南方の石鎚断層上でも,L−L',M−M'のやや小規模の屈曲がみられ,Mの北には南側に向いた比高数mの逆向き新期低断層崖がある.Mの谷は広い風隙を通って,M''の広い谷に連続していたとみなされる.西谷川は低位段丘面形成時までは,畑野集落付近を北東流し,その後西方の和泉層群よりなる丘陵を貫通して現流路をとるようになったと考えられる.西谷川が形成したと思われる側方侵食崖がO'・O''・P''とあるが,古いものほど変位量が大きくなっている.低位段丘面の形成前に,現西谷川の位置を流れていた河谷上流は,谷の規模がやや小さいが,Nないし(N)に求められる.また,畑野の南方では,P−P'のはっきりした屈曲が断層線上でみられ,屈曲部から東方へ開く風隙状地形がある.前述の地形のうち,もっとも明瞭なものをあげると,畑野断層沿いの150〜200mと,中央構造線に沿う550〜600mの計700〜800mが,高位段丘面形成以降の右横ずれ量と推算される.この付近の高位段丘は堆積原面を残している.地表面には厚さ1.5m+の赤色土壌層(色調:5YR,5〜4/8)がみられ,礫層は全体にかなりクサリ礫化している.この高位段丘堆積物や地下構造がかなり詳しく判明してきたが,高位段丘面の形成年代に関する直接的な値はまだ得られていない.なお,この高位段丘面上では深いボーリング調査が実施されている(第8図のLoc.1;金折ほか,1980).
浦山川河床露頭浦山川河床では,中央構造線(石鎚断層)とその両側の地質がよく観察された(第8図のLoc.2,第10図;岡田,1973a;松田・岡田,1977).安山岩質の岩脈が和泉層群側に貫入し,この一部は破砕して白色の粘土帯となり,走向N56。E・傾斜67。Nの断層面で,結晶片岩の断層破砕帯と接する.断層破砕帯中の剪断面は走向N50〜90。E・傾斜40。N〜75。Sと不規則であるが,第四紀後期に活動し,軟弱な断層ガウジ帯を伴う断層面の傾斜は70〜80。N(一部では75。S)と高角度である.とくに擾乱の著しい部分の破砕帯幅は10数m以内であり,黒灰色の断層ガウジ帯を伴う部分は幅約7mである.南側の三波川変成岩類はあまり破砕を受けておらず,その破砕帯幅は数m以下であり,すぐ南側に堅硬な岩石が露出している.柴田ほか(1989)によって,断層ガウジのK-Ar年代測定が行われている.

第11図.上野地区トレンチ掘削調査の位置(長谷川ほか,1999を一部改変).
第12図.上野地区トレンチ掘削調査の壁面(Cトレンチ東壁面)(長谷川ほか,1999を一部改変).位置は第11図参照.

上野地区トレンチ掘削調査(畑野断層) 上野にある四国電力(株)東予開閉所内では数多くのトレンチ調査が行われてきた(第11,12図;長谷川ほか,1999).確認された断層面は,全体としてほぼ東西の走向を示し(N80。E〜87。W),南または北へ高角度で傾斜する.みかけの隆起側も一定していない.
活動時期に関しては,谷底堆積物を変位させるCトレンチとSK-2掘削の成果が,年代測定値が多く得られたためとくに重要である.当地区での全ての調査から活動履歴をまとめた長谷川ほか(1999)によれば,最新活動時期は625ア80〜770ア75yrBP,1回前の活動時期は1,055ア80〜3,750ア100yrBP,2回前の活動時期は3,980ア130〜4,500ア130yrBPである.最新活動と2回前の活動の間隔は誤差を考慮すると約3,000〜4,000年であるため,平均値を取ると活動間隔が約1,500〜2,000年と算出される.ただし,調査は幅の狭い谷底で行われたので,堆積物が連続的に堆積していない可能性もあり,すべての活動が地層に記録されているとは限らない.したがって,求められた活動間隔は活動時期に比べると信頼性は低い(長谷川ほか,1999).
地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003)は長谷川ほか(1999)の記載と暦年補正値を考慮して以下のように述べた.すなわち,上野地区で行われた複数のトレンチ掘削調査結果によれば,SK-2トレンチでは9世紀以後に最新活動が認められた.これに対し,Gトレンチでは最新活動は3世紀以前であった可能性があり,最新活動の時期が矛盾する.SK-2地点では,断層を覆う地層からほぼ同じ年代値が得られており,他の地層から得られた年代値もこれとほぼ整合する.しかし,Gトレンチでは概ね2世紀の年代値が得られた地層からはさらに古い年代値(約3,700年前)が1つ得られているのみであり,これら以外には年代値が得られていない.このため,年代値データが豊富で,その信頼度が相対的に高いと推定されるSK-2トレンチの年代値のデータを重視し,9世紀以後15世紀以前,または9世紀以後17世紀以前に最新活動があったと判断する.周辺の調査結果を考慮すると後者が妥当と判断される.


 

Stop 5 四国中央市西金川〜平山付近の活断層地形とトレンチ掘削調査地点(池田断層)
[地形図]1/2.5万「伊予三島」,堤ほか(1999):都市圏活断層図 1/2.5万「伊予三島」
[位置]愛媛県四国中央市金田町平山

第13図.平山付近の地形・地質(岡田作成原図).等高線は50m間隔.1:池田断層と露頭,2:風隙,3:河谷変位,4:低位段丘層,5:中位段丘層,6:高位段丘層,7:中古期第四系,8:和泉層群,9:結晶片岩類.
第14図.金川付近の模式鳥瞰図と地質断面(永井,1973を一部改変).鳥瞰図は西北西上空から見たもの.断面の位置は第13図参照.1:沖積層,2:段丘礫層,3:崖錐堆積層,4:角礫層,5:和泉層群,6:結晶片岩類.
第15図.高知自動車道法皇トンネル北坑口付近の地形と地質(岡田,1994).1:沖積面(=層)・三波川変成岩類,2:和泉層群,3:沖積扇状地〜崖錐,4:新期地すべり(滑落崖と堆積域),5:古期地すべり,6:横ずれ河谷,7:池田断層.

[解説]活断層地形四国中央市金田町(旧川之江市金田町)西金川〜東金川には,池田断層に沿って広い沖積面が続き,ここから2つの河谷が北方へ流下している(第13図).1つは西金川から北東へ流れて,四国中央市(旧川之江市)正地に至るものであり,他の1つは三星ゴルフ場東側から,東金川の北方へと流下する河谷である.これら河谷地形から,約1kmに及ぶ右横ずれが推定される.この河谷の変位は北西側の尾根部を構成する礫層の堆積以後に形成されたものである.岡田(1973a)はこれを高位段丘礫層とみなしたが,水野ほか(1993)は岡村層に対比している.
西金川〜東金川の低地の北側と南側に沿って,断層が推定される(第13図).これらは明瞭な地形変換線を伴っている.この低地を南北方向に横切って水路トンネルが掘削された結果,断層の存在が地質的にも確認された(第14図;永井,1973).これによると低地の両側が正断層状の高角な断層で限られた地溝である.池田断層では右横ずれ成分が卓越するが,平面的な分布形と考え併せると,西金川〜東金川の低地は小規模なプルアパート盆地(pull-apart basin)とみなされる(後藤・中田,2000).金田町半田平山には明瞭な風隙地形があり,そこには層厚7m以上の河成礫層がみられる(第13図).かつての上流を断層以南の山地側に求めると,少なくとも350m西方の谷(堀切峠から平山へ北流する谷)となるが,このようにして推定される旧河谷は東流して金生川と合流する.平山にある249mの丘は,地すべりあるいは土石流堆積物(中古期第四系)で構成されるが,その堆積以後に約2kmの右横ずれをした可能性が指摘できる.
平山地区トレンチ掘削調査平山の幅狭い沖積低地でトレンチ掘削調査が行われた(愛媛県,2000).この地点は開析谷の中に認められる比高1〜2mの逆向き低断層崖の西方延長上にある.トレンチ掘削調査の結果,3条の断層が認められた.これらはいずれも南側へ高角度で傾斜している. 愛媛県( 2 0 0 0 ) は, 最新活動時期を1,120ア70yrBP前後(AD765〜1,025年),1回前の活動時期を1,120ア70yrBP〜2,930ア120yrBPとした.また,地層の流動化跡から190ア70〜610ア50yrBPに強い地震動を受けた可能性を示唆した.地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003)は,本地点における最新活動は9〜14世紀,流動化をイベントとした場合には14世紀以後であり,周辺の調査結果を考慮すると,後者が妥当と判断した.また,1回前の活動時期を約3,300年前以後11世紀以前としている.
なお,このトレンチ壁面に現れた断層は地質境界の中央構造線ではなく,すぐ北側を併走する和泉層群内の活断層であり,中央構造線との関係を解明する必要がある.高知自動車道法皇トンネル北坑口付近の地形・地質四国中央市川滝町(旧川之江市川滝町)領家の西端に,中央構造線(池田断層)を貫く高知自動車道法皇トンネルが掘削された(第15図).坑口周辺に新旧の地すべり地形が分布するが,池田断層はこうした地形を切断している.
北坑口付近を中央構造線が通過するが,詳しい地質は岸(1990)や出口ほか(1990)で報告されている.北坑口から南側へと厚い崖錐堆積物中を通過すると,約120m付近で中央構造線に伴う幅広い断層破砕帯(約60m)に遭遇する.中央構造線の北側には古期の崖錐堆積物があり,これは断層破砕帯と接し,断層面は南へ47。で傾斜している.また,古期崖錐堆積物を覆う新期の崖錐堆積物も破砕帯の北側で,急に厚さを増すので,断層破砕帯とは断層で接している可能性が高い.断層破砕帯は全体として粘土化の顕著な泥質片岩であるが,下盤側(北坑口側)では砂礫状であり,和泉層群の破砕帯状の岩石を挟む.上盤側に向かって次第に粘土・シルト分を含む砂礫となり,結晶片岩との境界では,完全な断層ガウジ帯となっている.この部分は遮水層となっているらしく,山地側から多量の湧水がある(出口ほか,1990).


 

Stop 6 三好市池田町付近の活断層地形と地質(池田断層)
[地形図]1/2.5万「阿波池田」,後藤ほか(1999a):都市圏活断層図1/2.5万「池田」
[位置]徳島県三好市池田町白地・シンヤマ・阿波池田市街地

第16図.三好市阿波池田付近の地形・地質(Okada,1980を一部修正).等高線は1:5,000国土基本図からを抽出したもので間隔は5m.★は古池ボーリング地点,_Cは露頭位置.
第17図.三好市阿波池田付近の河成段丘面群の模式断面(岡田,2004).

[解説]活断層地形三好市池田町(旧池田町)の市街地付近には日本を代表する見事な変位地形が発達している(第16図).市街地がある段丘面にはほぼN70。E方向に連なる南向きの低断層崖がみられる.崖の比高は西部で約30m,東部で約20mである.この低崖は吉野川の東方および西方までほぼ一直線に延びて新旧の段丘面を変位させ,これ沿いに断層露頭や破砕帯が確認される(岡田,1968,1970b;Okada、1980;水野ほか,1993;後藤ほか,1999).
池田上位面(上野ヶ丘)は東方に17パーミルの勾配で傾斜し,現河床面や池田下位面に比べてやや急である.低断層崖の比高は前述のように東西で異なっており,相対的な隆起量に差がある.上位面の堆積物は池田小学校北側で厚さ4〜5m,諏訪神社南側で1〜2mと薄い.この段丘礫層は径1mに達する粗大礫を含む吉野川本流のもので,風化はすすんでいない.上位面は層厚数m以下と全般に薄く,侵食段丘の性格をもつ.
池田下位面東縁にある比高約20mの段丘崖はすべて段丘礫層よりなり,基盤岩石は露出していないが,市街地南部の開析谷底には硬い結晶片岩がみられる.第16図に_Cで示した位置の露頭では,段丘礫層は上部礫層と下部礫層に2分される.下部礫層の上部に,厚さ約1.2mの灰色シルト〜粘土層がみられ,その中に多数の埋もれ木が含まれていた.この14C年代は,27,700ア600yrBP(TK-39)と測定された.よって低位段丘堆積物基底の不整合面は約3万年頃に形成されたとみなされる.池田市街地西方の池田下位面背後の侵食崖は約200m右横ずれておりし,段丘堆積物基底面も約40m北上がりに変位している(岡田,1968).平均右横ずれ変位速度は約6 . 6 m m / y r , 平均上下変位速度は北上がり約1.3mm/yrと求められた.
池田町白地付近における河成段丘面池田町白地から池田市街地付近にかけて,吉野川が形成した河成段丘面群がよく発達する(第17図;岡田,2004).白地の旧「かんぽの宿」付近から,周辺に見られる段丘面群を展望し,それらの堆積物との関係や形成年代について議論する.古池におけるボーリング調査 池田町市街地西部の古池(現在ではほとんど埋め立てられて工場や体育館が建設されている)で実施されたボーリング(第16図の星印)では,厚さ約10mの段丘堆積物の下方に,厚さ約60mの未固結堆積物がみられた.これはシルト層を含む土石流状の湖沼性堆積物であり,三波川変成岩類から供給された砕屑物を主体とし,メタセコイアの化石を含む.メタセコイアは大阪層群のMa3層準以降で消滅しているので,当域でもほぼ同じとみなせば,この堆積時期は更新世前期(約85万年)以前となる.こうした湖沼性堆積物が内陸の河谷底でみられることは意外であるが,中央構造線が通る馬路川河谷でも同じような堆積物が確認される.これらは当域の発達史を考察する上で貴重な事実であり,中央構造線に沿う東西方向の河谷に鮮新世後期−更新世前期の湖沼性低地が出現したことを意味している(水野,1992).また,池田西方のシンヤマは開口割れ目や不規則な破断面を伴う「和泉層群」の地すべり移動岩塊である(岡田,1968)が,この下位にも第四紀前半の堆積物が露頭やボーリング調査で確認されている.なお,古池ボーリングでは三波川変成岩類は60m以深に存在することが判明している.


 

Stop 7 東みよし町昼間の断層露頭(中央構造線)
[地形図]1/2.5万「阿波池田」,後藤ほか(1999):都市圏活断層図1/2.5万「池田」
[位置]徳島県三好郡東みよし町昼間

第18図.東みよし町昼間付近の詳細地形図(岡田・長谷川,1991を一部改変).
第19図.東みよし町昼間の小川谷川沿いに見られた断層露頭(平面図)(岡田,1968).位置は第18図の_印.

[解説]東みよし町昼間(旧三好町昼間)付近には,比高数mの南向き低断層崖がほぼ東西方向に延びている(第18図;岡田,1968).この池田断層に沿う低断層崖は小川谷川西方に見られる比高約10mの南向き低断層崖へと連続する.これらを結ぶ直線と小川谷川が交わる付近の河床において,中央構造線の断層露頭が広く平面的に観察された(第19図;岡田,1968).北側に黒褐色を呈する和泉層群断層破砕帯がみられ,相当破砕された和泉層群が破砕度を減少しつつ,数100m以上北東まで見られた.南側に淡緑色を帯びた灰色〜灰白色の縞模様をなす三波川変成岩類が分布し,境界部には変成岩類起源の断層ガウジが発達する.和泉層群と三波川変成岩類の境界はinterfinger状の差違え構造をしており,断層ガウジが発達する.断層面の個々の接触部や,破砕帯内の剪断面の走向・傾斜はかなり相違がある.しかし,和泉層群断層破砕帯と結晶片岩との境界をなす断層面の全体的な走向・傾斜はN82。E,70。Nである.このような構造は,その接触状態からみて,主として,右横ずれの断層運動の凸部が砕波時の波形のように楔状に取込まれて,さらに延張されて形成されたと解される.


 

Stop 8 三好市三野町芝生の活断層地形と断層露頭(中央構造線・三野断層)
[地形図]1/2.5万「辻」,後藤ほか(1999):都市圏活断層図 1/2.5万「池田」
[位置]徳島県三好市三野町芝生

第20図.三好市三野町芝生付近の地形(岡田・堤,1990).等高線は1:5,000国土基本図からを抽出したもので間隔は5m.二点鎖線は中央構造線,破線は活断層線を示す.
第21図.三好市三野町芝生付近の地形・地質断面図(南北方向)(岡田,1973b).

[解説]三好市三野町太刀野(旧三野町太刀野)から芝生北方にかけては,東北東方向に走る数本の断層がみられるが,活断層帯が大きく屈曲・湾曲する場所に位置している(第20図;岡田,1970b).これら断層のうち,変位地形がとくに明瞭で活動的と思われるのは南端の三野断層であり,太刀野山のL1段丘面を切断して,比高10〜12mの低断層崖が形成されている.第20図東部の三野断層に沿う尾根や河谷は系統的な右ずれ屈曲をなすので,三野断層は右ずれが卓越し,北上がりの上下変位成分を伴う活断層と認定される.
この低断層崖のまさに東北東延長部に当たる,河内谷川東岸側には,三野断層沿いの大規模な破砕帯が露出している(第20図のLoc.F11).ここは高速道建設前から大規模な土砂採取地となり,三野断層周辺から北方約200mの範囲にかけて,和泉層群の破砕状況がよく観察できてきた.
この南端部では,今村ほか(1949)や中川・中野(1964a)により,「芝生衝上」と名付けられた低角度(30。N)の断層が指摘されたが,採掘地でも和泉層群の破砕帯が南側にある礫層に衝上する様子がよく観察された.
南端部の芝生衝上の北側に,上記の三野断層が認められた.この位置が第20図のLoc.F11であり,かつて明瞭な断層鞍部が存在したが,現在では取り除かれた.この三野断層の位置で,和泉層群が破砕されている状況が南北方向の断面でよく観察された.とくに,破砕が顕著であり,断層ガウジ帯を含む細粒物質が幅広く認められた場所は鞍部付近であった.そこでは,破砕度Ľ(断層角礫帯;松田・岡田,1977)〜Ś(断層粘土帯)の幅は8m以上におよび,この南北両側に破砕度Ł〜Ľ(原岩の堆積構造不明)が数m以上の幅で広がる.中心部をなす断層粘土主体の破砕帯の中には,何本もの剪断面がみられ,それらは走向:N80。E,傾斜:Vで,相互にほぼ平行している.和泉層群の破砕帯は黒褐色から灰黒色を呈し,破砕から免れた砂岩の角礫を多く挟む.断層面ないし剪断面に沿って,灰白ないし青灰色の三波川結晶片岩に由来した,紡錘形ないし脈状の破片が細長く取り込まれていた.工事の進捗によって,幅1m強の青灰色や淡緑色を呈する縞状模様の入った明瞭な断層粘土帯がブーダン状に挟まれる.こうした和泉層群と三波川結晶片岩類の破砕帯が差し違えて産出する状況は讃岐山脈南麓沿いの何カ所か観察された(岡田,1970b)が,淡路島南部でも確認されている(金折ほか,1982).この破砕物は泥質片岩からなり,明瞭な剪断面を伴わず,流動したように和泉層群の破砕帯内に取り込まれている.破砕物の面構造はN80。Eの走向で,ほぼ鉛直である.しかし,この面に沿って鏡肌が形成されているので,断層面に相当する.ほぼ垂直に近い三野断層の地下には,三波川変成岩類の破砕帯が存在する.北傾斜の芝生衝上の北側を併走するので,両者は地下浅所で合流しており,中央構造線の断層帯を形成しているとみなされる(第21図;岡田・長谷川,1991).

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