モンゴル地質学会との交流協定締結


日本地質学会とモンゴル地質学会の交流協定の調印式が、10月14日モンゴル地質 学会のモンゴル地質調査70周年記念学術大会の際に行われました。 モンゴル地質学会からの招待を受け、地質学会からは、宮下会長と石渡理事(国 際交流担当)及び地質学会日・モンゴル小委員会の高橋裕平会員・坂巻幸雄会員 にご出席頂きました.
調印式のほかモンゴル訪問の様子を石渡理事よりご報告頂きましたのでお伝えし ます。 
 



宮下会長と石渡及びモンゴル交流小委員会の高橋裕平さんは,12日の夕方,無事にウランバートル空港に着き,モンゴル地質学会副会長のO. Gerelさん(女性)の出迎えを受けた.
13日の朝は,まず日本大使館を訪問し,二等書記官の大川陽一さんに今回の訪問の目的と学術交流の今後の見通しなどをお話しした.その中で,モンゴルにジオパークをつくることに地質学会として協力できるかもしれない,という話に特に興味を示された.
その次にモンゴル科学技術大学のGerelさんの研究室を訪問し,岩石,鉱物,化石,地球物理などの授業を参観した.どの教室も学生であふれていて活気があった(写真1).日本語学科も訪問し,スタッフの日本語があまりに流暢なので感激した.昼は,一般人は入場できない立派な建物の迎賓館で,S. Oyun会長(国会議員でもあり,「市民の意思党(Civil Will Party)」の党首でもある.ただし,この党は党員3万人で議員は彼女1人とのこと)主催の昼食会があった(写真2).日本側の出席者は宮下会長,私,高橋裕平さん,坂巻幸雄さん,そして坂巻さんの奥さんで,モンゴル側はOyunさん,Gerelさん,地質・石油技術学部長のChuluunさん(男性),資源関係の会社のGotovsurenさん(男性),そして助手の女性1名だった.

   
写真1.モンゴル科学技術大学の岩石学実習の様子. 写真2.左からモンゴル地質学会副会長(国際地質科学連合 IUGS副会長)のGerel氏,同会長で国会 議員のOyun氏,日本地質学会会長の宮下氏.13日の昼食会で.


昼食会の後は,Gotovsurenさんが公用車を使って宮下会長と私を市内各地に案内して下さった.ウランバートル市街の南にある展望台(弱変成古生層がよく露出している)や市内の仏教寺院兼王宮などに行った.
14日はモンゴル地質学会のモンゴル地質調査70周年記念学術大会の1日目で,モンゴルにおける地質調査の歴史の話から始まって,個別的な地質の報告が続いたが,講演はすべてモンゴル語で行われたため,私たちにはよくわからなかった.口頭発表37件,ポスター発表25件(計62件)のうち,日本人の発表が2件(高橋氏と栗原氏,いずれもポスター),日本人が共著者の発表が5件あり,日本との交流が成果を挙げていることが伺える.私が個人的に興味深かった発表は,イギリスのH. Nigelほかのモンゴル中央部のBaga Togo Uul火山(更新世)からのザクロ石レールゾライト捕獲岩の報告(ポスター)であった.また,発表はなかったが,要旨集にはGerelほかによるモンゴル初のフルグライト(閃電岩)の発見や名古屋大学の足立守氏による「名古屋大学がモンゴル科学技術大学に設けたフィールド・リサーチ・センターの役割」という文章も載っている.
14日の昼に学会会場内の小さな階段教室に設けられた式場(写真3)で日本地質学会とモンゴル地質学会の交流協定(資料1)の調印式が行われた.宮下会長とOyun会長が協定書にサインして取り交わしたが,テレビ・チームの到着が間に合わなかったので,その後別室で再度協定書にサインするところを撮影し,両会長がインタビューに答えた.宮下会長からOyun会長に交流協定締結記念のプレートが贈られ,Oyun会長から宮下会長に馬頭琴が贈呈された.
14日の午後はモンゴル科学アカデミーの地質鉱物資源研究所を訪問し,D. Tomurhuuさんからモンゴルの地質全般やオフィオライトについての話を伺った.2006年にウランバートルで開催されたIGCP480集会の要旨集・巡検案内書をいただいた.個人的には,この研究所の顧問でアカデミー会員のO. Tomurtogoo氏(オフィオライト研究者)と学会会場で知り合えたことがよかった.
14日の夕刻から市内のレストランでモンゴル地質学会有志7名(すべて女性)による日本人歓迎夕食会が行われた.日本側参加者は宮下純夫・石渡 明・高橋裕平・栗原敏之である.シャブシャブで腹ごしらえをした後,カラオケに繰り込み,深夜まで歌って踊った.S. Jargalanさんは東北大学で博士号をとったそうで,日本語も日本の歌も上手だった.

15日は終日雪で寒かった.午前中まず自然史博物館を訪問した.12日に日本から帰国したモンゴル人がモンゴル初の新型インフルエンザ感染者だったということで,13・14日は博物館が閉鎖されていたが,15日は外国人のみ?に観覧させてくれた.ドアの取っ手にアルコールを染ませたガーゼを巻くなどのインフルエンザ対策がなされていた.そのあと,岡山市の株式会社林原社長,林原 健氏の援助で設けられた古生物研究所を訪問し,N. Ichinnorovさん(女性)の案内で恐竜化石を見学した.
この日の昼に鉱物資源エネルギー省副大臣主催で外国の代表団(といってもロシアと日本のみ)の歓迎昼食会があった.この昼食会については事前に知らされておらず,宮下会長は休養のためホテルに戻っていたので,石渡が代わって祝辞を述べた.この席には巡検や集中講義のためにモンゴルを訪問中の石原舜三氏も出席した.

16日はモンゴル地質調査70周年記念式典が盛大に行われた.まず,外国の代表団(ロシアと日本)が鉱物資源エネルギー省に招かれ,大臣のD. Zorigg氏の名前で記念メダルが授与され,厚い地質家名鑑をいただいた.その後,代表団は鉱物資源庁を訪問し,記念品をいただいた.その後,市内のギャラリーで開催されている「地質絵画展」を見学した.地質調査の様子や特徴的な風景,地質家の肖像などの大きな油絵が多数展示されていた.その後中央広場のチンギスハンの像の前で記念写真の撮影があったが,我々は間に合わなかった.1000人以上集まった模様である.
午後からは中央広場に面する大きな公会堂でモンゴル地質調査70周年祝賀会が1000人程度の規模で行われた.モンゴルの首相や鉱物資源エネルギー大臣の祝辞のあと,宮下会長が英語で祝辞を述べた(資料2)(写真4).これにはモンゴル語の通訳がついた.ロシア人の挨拶はロシア語だったが,モンゴルの大部分の地質屋はロシア語がわかるので,通訳はつかなかった.そのあと,歌や踊りが夕方まで続いた.舞台の前にオーケストラが陣取り,軍服を着た唱歌隊や民族衣装のコサック風の踊り,演歌調の独唱など,圧倒的な音量で盛りだくさんだった.
夕方からは街外れのナイトクラブの体育館のような建物で祝賀晩餐会が催された.これも数100人規模の大晩餐会で,立食ではなく10人ずつが円卓を囲む形式だった.ここで鉱物資源庁の高官からモンゴルの地質写真集をいただいた.この日の大規模なイベントは10年に1度の全国的な地質屋の慰労会という感じだったが,今回が10年前よりも規模が大きいことは,地質関係の重鎮が国会議員の補欠選挙に出ることと関連するかもしれない.

   
写真3.モンゴル地質学会と日本地質学会の交流協定の調印式場 写真4.モンゴル地質調査70周年記念式典で祝辞を述べる宮下会長(演壇).その左はモンゴル語の通訳.右から2人目はモンゴル地質学会のOyun会長.


そして17日朝6:55ウランバートル発の飛行機で無事に帰国した.この飛行機には朝青龍(ビジネスクラス)と幕下力士(エコノミークラス)が浴衣姿で乗っていた.我々はもちろんエコノミーである.なお,石渡は帰国後にひどい風邪をひいたが,検査の結果新型インフルエンザではなかった.

モンゴル地質学会はまだ定期刊行物を持たず,定期的な学術大会も行っていないが,モンゴル国の産業に占める地質関係者の実力は相当なもので,そのことは鉱物資源エネルギー省や鉱物資源庁が政府の役所として存在すること,地質関係の国会議員がOyunさんを含めて2人いることにも表れている.また,世界最大級の斑岩銅鉱床(Oyu Tolgoi)が発見されて,その開発が軌道に乗り出したことが大きなニュースとなっていた.
日本は1990年代から地質分野でモンゴルに対してこれまでも様々な技術協力や留学生の受け入れを行ってきており,日本で博士号をとった若い研究者は大学に採用されて高い評価を得ている.今回の訪問は,こうしたモンゴルの状況を詳しく知ることができ,また,政府・学術関係の地質関連の多くの方と交流出来たことなど,実り多いものとなった.今回の交流協定締結が今後の両国の地質関係者の更なる交流拡大につながることを期待する.

 

石渡 明(日本地質学会国際担当理事,東北大学東北アジア研究センター)



資料1.モンゴル地質学会と日本地質学会の交流協定(PDF)

資料2.モンゴル地質調査70周年記念式典における宮下会長の祝辞 (PDF)