平安時代の「日本三代実録」の地震・津波・噴火記録:地震西進系列の白眉

 

正会員 石渡 明
 

図1.「日本三代実録」から読み取った毎年の地震数の変化.本文で述べた大地震の発生年を矢印で示す.(クリックすると大きな画像をご覧いただけます)

 日本地震周期表(石渡,2019)は最近約360年間の日本の被害地震の時空分布をまとめ,大地震(≧M7.5)が東北日本から関東甲信越・西南日本を経て琉球・台湾へと110〜180年かけて西進すること,その地震系列が約120年周期で繰り返すことを示した.そして,南海トラフ地震の年号により,各西進系列を宝永,安政,昭和,最新と名づけた.例えば,1677延宝三陸・房総沖−1703元禄関東−07宝永南海トラフが宝永系列を代表する地震であり,1793寛政仙台沖−1847弘化長野善光寺−54安政南海トラフが安政系列を代表し,1896明治三陸−1923大正関東−44・46昭和南海トラフが昭和系列を代表する.

 東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)は最新系列前半の巨大地震であり,この系列の南海トラフ地震は未発生だが,上の3例では東北の巨大地震の30, 61, 48年後に発生した.この系列の関東地震も未発生だが,2015小笠原西方沖M8.1深発地震は注目される.

 平安時代前期にも869貞観(じょうがん)三陸−878元慶(がんぎょう)関東−887仁和(にんな)南海トラフの地震系列が存在し,この系列では東北の巨大地震の18年後に南海トラフ地震が発生した.そして,これらを含む30年間(858-887)の歴史は「日本三代実録」(日本書紀以後の六国史の最後)に日記形式の漢文(天皇の詔勅(しょうちょく)は漢字と万葉仮名(まんようがな))で記述されていて,地震系列の白眉(はくび)と言える.小論では日本三代実録を地震・津波・火山活動及び災害対応の観点から紹介する.なお,684,1096・99,1361,1498,1605年の南海トラフ地震前後の地震系列は不明瞭である※1

 日本三代実録(黒板ほか, 1974; 武田・佐藤, 2009)の概略を紹介する.宇多天皇の寛平(かんぴょう)4(892)年に勅撰の詔が下り,源(みなもとの)能有(よしあり)・藤原時平(ときひら)・菅原道真(みちざね)※2・大蔵善行(よしゆき)・三統(みむねの)理平(まさひら)の5人が執筆・編集に当たったが,途中で能有が死去,道真が左遷(901年,時平の讒言による,903年任地大宰府で死去),理平の転任により,延喜元(901)年に醍醐(だいご)天皇に提出された完成版に名を連ねるのは時平・善行の二人である(善行の貢献が最大とされるが,全50巻の各巻冒頭には「藤原時平等撰」とある).三代というのは第56代清和(せいわ)天皇(850-880, 在位858(天安2)-876),第57代陽成(ようぜい)天皇(868-949, 在位877-884),第58代光孝(こうこう)天皇(830-887, 在位885-887)の御代で,年号は貞観(じょうがん)(859-876),元慶(がんぎょう)(877-884),仁和(にんな)(885-888)である.清和天皇は元服前に幼くして即位した史上初の天皇であり,「清和源氏」の始祖としても有名である.陽成天皇は清和天皇の第一皇子で,清和天皇と同じ年齢で即位した.光孝天皇は第54代仁明(にんみょう)天皇の第三皇子であり,皇統がやや離れていて,老齢で即位した.この三代は摂関政治の始まりとされる.

 藤原定家の小倉百人一首には陽成天皇(退位後)と光孝天皇(即位前)の歌が収められている.「つくばねの峰より落つるみなの川こひぞつもりて淵となりぬる」(陽成院),「君がため春の野に出(いで)て若菜つむわが衣手(ころもで)に雪はふりつゝ」(光孝天皇),はこの2人の対照的な性格と人生を表している.陽成天皇は父の清和天皇の譲位により9歳で即位したが,乱暴な振る舞いが多く,母の兄で摂政の藤原基経と対立し,7年で自ら病気を理由に譲位した.しかし,その後65年生きて81歳で亡くなった.この歌は恋歌とされているが,それにしては非常に直線的で暗く,もしかしたら「こひ」に「己非」(仮名のこ,コは己の草体,略体)が掛けてあり,そうであれば転落の人生の述懐にも読める.一方,光孝天皇の歌は明るく,善意と余裕が表れている.藤原基経の推挙により55歳で即位した.血縁関係ではなく,才識・人品を評価しての擁立で,基経の公正な態度に世人は感服したが,その3年後,仁和の南海トラフ地震で被災し,更にその20日後に台風の被害を受けて発病し,地震の26日後に58歳で崩じられた.当時は天災も為政者の責任とされ,被災と心労による,今で言う災害関連死だと思う.日本三代実録は清和天皇即位の日に始まり光孝天皇崩御の日で終わる.

 日本三代実録に記録された30年間の地震数の変化を図1に示す.これは京都で感じられた地震を数えたもので,伝聞による遠地地震は数えない.最も記録が多かったのは元慶4(881)年の59回だが,その内訳は12月6日の京都地震と年内25日間の余震で53回に達する.次が南海トラフ地震の仁和3(887)年で,32回に達するが,この年は7月30日の同地震の約1カ月後に記録が終了したので,実は同年内の地震数はこの数倍だった可能性がある.つまり,京都の直下型地震の余震の地震数が最も多かったが,南海トラフ地震の余震もそれと同等かそれ以上だったと考えられる.
 気象庁のデータによる2004〜2014年の10年間の京都の有感地震回数は244回で,年平均24回だから,日本三代実録30年間の年平均11回よりも現在の方が2倍以上多い.ただし,当時は震度1の地震は感じない,記録しないことも多かったと思うので,当時と今とで京都の地震数は「大差ない」と見るのが正解だろう.また,南海トラフ地震の前に地震が増加する事実もなく,むしろ元慶6(882)年から仁和2(886)年までの5年間は地震が少なかった(図1,年平均4回).以下,この30年間の大地震と災害対応を古い順に見よう.

 貞観5年6月17日(863年7月10日)の越中・越後地震(M≧7:宇佐美,1996)は「地大いに震(ふる)いき.陵谷(りょうこく)処(ところ)を易(か)え(地形が大きく変化し),水泉湧(わ)き出(い)で,民の廬舎(ろしゃ)を壊(こぼ)ち,圧死する者衆(おお)かりき.此より後,毎日常に震いき」と記述されている.柳澤(2017)は清和天皇が元服前だったため,この地震に対する朝廷の具体的な対応が史料に見えないとしているが,8月15日に越中国正(じょう)六位上(ろくいのじょう)の鵜坂(うさかの)姉比(あねひめの)神,鵜坂妻比(つまひめの)神(富山市婦中町),杉田神に従(しょう)五位下(ごいのげ)を授けたという記事があり,この地震に関連した叙位かもしれない.この年は閏6月があり,叙位は地震の3カ月後である.

 貞観10年7月8日(868年8月3日)の播磨・山城地震(M≧7.0:理科年表,以下同)については,15日に播磨の国司から,諸郡の官庁や寺院の堂塔が「皆尽(ことごと)く頽(くず)れ倒れき」という報告があった.京都では「家屋や垣が所々頽破した」程度だった.その後摂津でしばらく余震が続いたので,閏12月10日に天皇は使者を摂津の広田・生田神社に遣(つか)わして,「地震の後に小震が続くので占いをしたところ,こちらの神様がお怒りとのことなので,広田神は従一位,生田神は従三位に昇格させるから,どうか怒りを鎮めて天下平安にしていただきたい」という意味の告文を奉った.広田神はもと正三位,生田神は従四位下だった(12月16日条)ので大昇格である.また,同日,山城の櫟(いちい)谷(たにの)神(かみ)も従五位下から正五位下に昇格させ,閏12月21日,播磨国正六位上射(い)目埼(めきの)神にも従五位下を授けた.これらの叙位は地震の半年後である.宇佐美(1996)と理科年表は山崎断層の活動によるものか?とする.

 貞観11年5月26日(869年7月13日),陸奥(むつ)国大地震(Mw8.4)が発生した.2011年の地震・津波と同様の大きな被害が生じたが,その記載文は有名なのでここでは省く(柳澤, 2017参照).清和天皇は9月3日に紀(きの)春枝(はるえ)を検陸奥(むつ)国地震使に任命し,判官(じょう)一人,主典(さかん)一人を付けた.30年間に地震災害は何回もあったが,地震使を派遣したのはこの時だけである.同年10月13日の詔で清和天皇は,「聞く如(なら)く,陸奥国境に地震尤(もっと)も甚(はなは)だしく,或いは海水暴(にわか)に溢(あふ)れて患(わずら)いと為り,あるいは城宇頻(しき)りに圧(つぶ)れて殃(わざわい)を致すと.百姓何の辜(つみ)ありてか,この禍毒に罹(あ)う.憮然として媿(は)じ恐れ,責め深く予に在り.今使者を遣(や)りて,就(ゆ)きて恩喣(おんく)を布(し)かしむ.使,国司と與(とも)に民夷を論ぜず勤めて自ら臨撫し,既に死にし者は尽(ことごと)く収殯(しゅうひん)(埋葬)を加え,その存(い)ける者には詳(つまびらか)に賑恤(しんじゅつ)(援助)を崇(かさ)ねよ.其の害を被(こうむ)ること太甚(はなは)だしき者は,租調(税)を輸(いた)さしむるなかれ.鰥寡(かんか)孤独の,窮して自ら立つ能(あた)わざる者は,在所に斟量(しんりょう)して厚く支え済(たす)くべし.務めて矜恤(きんじゅつ)の旨を尽くし,朕(ちん)親(みずか)ら覿(み)るが若(ごと)くならしめよ」とご自身の責任と地震使の使命を明らかにした.

 元慶2年9月29日(878年11月1日)夜の関東地震(M7.4:当時の関東は鈴鹿・不破の関以東)は相模・武蔵で最も被害が大きく,「公私の舎屋一として全き者無く,或は地窪(くぼみ)陥(おちいり)て往還通ぜず,百姓の圧死は勝(あげ)て記すべからず」という状態で,5〜6日間震動が続いた.元慶5年10月3日,相模国の使者が朝廷を訪れ,国分寺の金色の薬師丈六(約5m)像1体,脇侍(きょうじ)の菩薩像2体が「元慶3年」9月29日の地震で破壊されその直後の火事で焼失したので,改めて造立して頂きたい,また太政官の貞観15年7月28日の符により漢河寺を国分尼寺とされたが(この記事は日本三代実録に無い),地震により漢河寺が大破したので,国分尼寺を元の寺に戻して頂きたいと要請したので,詔をもってどちらも許した.この記事の「元慶3年」は2年が正しいとする説が大勢だが,3年が正しい可能性もある.宇佐美(1996)や理科年表は伊勢原断層の活動によるものか?とする.なお,相模国分寺跡は海老名駅近くに現存する.柳澤(2017)は,陽成天皇が元服前のため,この地震に対する朝廷の対応が史料に見えないとする.以下の元慶4年の地震についても同様だろう.

 元慶4年10月14日(880年11月23日)の出雲地震(M7.0)は京都でも「地大いに震いき」と記録されており,27日に出雲国の使者が朝廷に次のように報告した.「今月十四日,地大震動し,境内の神社仏寺官舎,及び百姓の居廬(きょろ),或いは顚倒(てんとう)し,或いは傾倚(けいい)し,損傷せし者衆(おお)し.其の後二十二日まで,昼は一二度,夜は三四度,微々震動して,猶(なお)未(いま)だ休止せず」.黒板他(1974)では元慶3年10月14日と27日にも全く同じ記事があり,上の関東地震の年数の誤りもあるので,年月日は鵜呑みにせずよく調査する必要がある.

 元慶4年12月6日(881年1月13日)の京都地震(M6.4)は子の刻(真夜中)に発生し,朝までに16回余震があって,宮中や市内の建物が多く損壊した.12月4日に太上(清和)天皇が崩じられたので(この日も5〜6回地震があり,これらは前震かもしれない),大赦の詔を発出したが,これは地震の後に予定通り行われ,7日に囚人200人を解放し各人に30文の銭を賜った.この地震について神社への告文はなかったようだが,陰陽寮(おんみょうりょう)は「地震の徴は,兵賊飢疫を慎むべし」と奏言した.

 仁和3年7月30日(887年8月26日)の南海トラフ地震(M8.0〜8.5)は午後4時頃発生した.1時間以上経過しても揺れが止まなかった.光孝天皇は仁寿殿を出て紫宸殿の南庭にお出ましになり,大蔵省に命じて七丈(21m)のテント2つを建てて御在所とした.「諸司の倉屋及び東西京の廬舎,往々にして転覆し,圧殺せらるる者衆(おお)く,或は失神して頓死する者有りき」という状態で,午後10時頃にも3回の余震があり,夜中に雷のような音が2回,東と西に聞こえた.「五畿七道諸国も同日に大震ありて官舎多く損じ,海潮陸に漲(みなぎ)りて溺死者勝(あ)げて計るべからず.そのうち摂津国尤(もっと)も甚(はなはだ)しかりき」.以後毎日余震が数回あり,8月4日は5回あった.この日,達智門上に煙か虹のような気があり,人は羽蟻だと言った.過去に例がないことだったので,陰陽寮が占ったところ,「大風洪水失火等の災有るべし」と出た.翌5日も昼に5回,夜にも大地震があり,京都の人々はみな家から出て路上で過ごした.8日にも羽蟻が出た.地震以後は,読経のために宮中に呼ばれた僧侶数人が夜中に宿舎の外の騒音を聞いて出てみたら何もなかった等,宮中や京都の人々の間に「不根の妖語」が多々語られた.20日の明け方から夕方まで大風雨があり,「樹を抜き屋を発(あば)き」,転倒する家に圧殺される者も多かった.鴨川や葛野川(桂川)の水が「洪波汎溢」して人馬が通行できなかった.22日,太政大臣藤原基経(実質的には関白)ら高官14人が連名で表を奉って光孝天皇に皇太子を立てることを願った.光孝天皇は子息を全て臣籍に降下させ朝(あ)臣(そん)の称を賜っていた.理由は「斯(これ)誠(まこと)に国用(国費)を節し民労を息(やす)むる計(はかりごと)なり」だった.24日,まだ余震が続く中,天皇は第7皇子21歳の定省(さだみ)親王(後の宇多天皇)を皇太子とすることを表明し,26日にその旨の策(辞令)が発出された.この日天皇は「聖体乖予」となり,午前10時頃仁寿殿において崩じられた.「時に春秋(おほむとし)五十八なりき」の一文で日本三代実録全50巻が終わっている.なお,この地震については,仁和4(888)年5月28日に宇多天皇の詔が出たが,これは「阿衡(あこう)の紛議」の最中に発出された(柳澤, 2017).また,父の死の原因となった南海トラフ地震の記述を簡素にしたかった宇多天皇の意向に沿い,日本三代実録全体として,大災害は一々地方からの報告を載せず,発生日に事実を略記したと考えられる(柳澤, 2017).

 日本三代実録の30年間に富士山も噴火した.貞観6(864)年5月25日に駿河国司が,「富士郡の正三位浅間大神の大山(富士山)に火あり.其の勢い甚だ熾(さかん)にして,山を焼くこと方一二里,光炎の高さ二十丈許(ばかり),雷有り,地震三度,十余日を歴(へ)れども火猶滅(なおき)えず,巌(いわ)を焦がし嶺を崩し,沙石雨ふる如く,煙雲欝蒸して人近づくを得ず.大山の北西に本栖水海(もとすのうみ)あり.焼けし巌(がん)石(せき),流れて海の中に埋もれ遠さ三十里許(ばかり),広さ三四里許,高さ二三丈許にして,火焔遂に甲斐国の堺に属(つ)く」と報告した.同年8月4日の記事では,亀甲で占ったところ,富士山が噴火したのは甲斐国浅間明神の禰宜(ねぎ)たちが斎敬を勤めなかったためだとして,神に御幣を奉って解謝すべき旨を甲斐国司に下知した.貞観7年12月9日の記事では,甲斐国に神社を造り官社として禰宜を置くことを決めたが,「異火の変,今に止まず,使者を遣りて検察せしむるに,剗海(せのうみ)を埋めること千町許(約10km2)」と記す.この時に今の富士五湖ができたとされる.貞観6年は仁和3年の南海トラフ地震の13年前に当たる.江戸時代の宝永の南海トラフ地震では,約2ヶ月後に富士山が爆発的な大噴火をしたが,安政と昭和の南海トラフ地震の際は噴火しなかった.

 この30年間は他の火山の噴火記録も多い.まず,貞観9(867)年1月20日豊後の鶴見岳の噴火(2月26日記事),5月11日夜阿蘇山小噴火(8月6日記事),10月3日夜に阿蘇山神霊池の水が湧き上がった異変(12月26日記事)が相次いだ.貞観13(871)年4月8日出羽国の鳥海山が噴火,溶岩流が海に達し,泥流が広がった(5月16日記事).貞観16(874)年3月4日には開聞岳が噴火(7月2日・29日記事),仁和元(885)年7月12日と8月11-12日にも噴火した(10月9日記事).貞観2年3月20日と同8年4月7日に開聞神の叙位記事があるので,この頃も噴火した可能性がある.安房では仁和2(886)年5月24日の夕刻,南海に黒雲が湧いて電光が現れ,雷鳴地震して夜通し止まなかった.26日に火山灰が降り,山野田園を覆った.厚さは最大2〜3寸.農作物は尽(ことごと)く枯れ,灰がついた草を食べた牛馬が多く死んだ(7月4日記事).これは新島(にいじま)の噴火とされている.貞観時代,赤城(あかぎ)神,二荒(ふたら)神,白山比女(しらやまひめ)神にも叙位記事があるので,赤城山,日光白根山,白山(はくさん)も噴火した可能性がある.そして,仁和3(887)年7月30日の南海トラフ地震とほぼ同時に新潟焼山が噴火し,8月5日までの間に火砕サージ,火砕流,溶岩流を噴出した(早津, 1992).これは同火山史上最大の噴火であるが,日本三代実録にこの記事はない.このように,この30年間は東北,関東,九州の火山活動が盛んだった.これに比べると平成〜令和の日本本土の火山活動は低調である(琉球弧や伊豆・小笠原弧ではやや活発).

 終わりに,地震系列の観点からは,東北の大地震の発生後,関東地震・南海トラフ地震の発生前に位置する現時点(2022年)は,日本三代実録の期間の中間点付近(貞観16年頃)に対応する.約1200年前の30年間にわたる自然災害とそれへの対応についてのこれほど網羅的かつ詳細な記録は世界にも例がないと思う.我々はこの貴重な歴史遺産を現代に活かし,自然災害から人の命を守る現実的で効果的な対策を立て,着実に実行する必要がある.

追 記
※1:2022年10月22日の日本経済新聞東京夕刊によると,1454年に東北地方太平洋岸を襲った「享徳の津波」が実際に発生した可能性が高くなったとして,理科年表の2023年版から新たに掲載されるとのことである.そうすると,15世紀にも1454年享徳東北地震・津波−1495年明応鎌倉地震・津波−1498年明応南海トラフ地震・津波という地震西進系列が存在し,東北地震から南海トラフ地震まで44年だったことになる.これにより,歴史上知られている9回の南海トラフ地震のうち過半数の5回で地震西進系列が見られることになり,東北地震から南海地震までの平均間隔は40年(18〜61年)となる.また,1605年慶長南海・房総津波については,その後で1611年慶長三陸地震・津波が発生しており,大地震が東進したように見えるが,両地震の間隔は6年と歴史上最短であり,これを両地震が短期間で相次ぎ発生した西進系列の特殊な場合とみなせば,9回のうち6回となる.(2022.10.25追記)

※2 菅原道真は貞観12(870)年に26歳で方略試(官吏登用の最高国家試験)に合格したが,その時の試験問題の1つが「地震について論ぜよ」だった.彼は対策(たいしゃく)(答案)で中国の古典や仏典に表れる地震の例を縷々述べたが,日本の地震や彼自らの地震体験については全く触れず,出題者の都(みやこの)良香(よしか)による講評は,「論理が通っていない」,「因果関係の分析が不十分」などと手厳しく,評価は合格ギリギリの「中の上」だった(大崎順彦1983「地震と建築」岩波新書240,p. 13-20).この年は貞観11年の陸奥国大地震の翌年であるから,この出題はタイムリーであり,出題者としては前年の地震や津波に関する清和天皇の詔(本文参照)を引用するなどして,日本の現実の地震についても論述して欲しかったのだろう(もしかしたら,出題者がこの詔の起草に関与したかもしれない).「受験の神様」は,漢文は得意だったが,時事問題は苦手だったようである.(2023.1.16追記)



文 献

  • 早津賢二(1992)燃える焼山 知られざる火山−その現在・過去・未来.新潟日報, 171p.
  • 石渡明(2019)日本地震周期表:大地震の西進傾向と将来予測.日本地質学会第126年学術大会(山口)ポスター発表T6-P-2.https://www.nra.go.jp/data/000288489.pdf
  • 黒板勝美・国史大系編修会(1974)新訂増補国史大系普及版 日本三代実録 前篇1-326p.・後篇327-642p.吉川弘文館.(漢文)
  • 武田祐吉・佐藤謙三訳(2009)読み下し日本三代実録 上巻716p.・下巻468p.戎光祥出版.
  • 宇佐美龍夫(1996)新編日本被害地震総覧.493p. 東大出版会.
  • 柳澤和明(2017)『日本三代実録』にみえる五大災害記事の特異性.歴史地震, 32, 19-38.
※本原稿の短縮verが,日本地質学会News,Vol.25,No.10(2022年10月号)に掲載されています.