日本地質学会の60, 75, 100周年記念誌を読む:125周年に向けて

 

石渡 明(日本地質学会会長、東北大学東北アジア研究センター)


 1893年の創立から今年で121年になるが(ただし1934年までは「東京地質学会」)、本学会は60、75、100周年に記念誌を刊行してきた。この他、1985年に地質学論集25号「日本の地質学—1970年代から1980年代へ」、1998年に同49号「21世紀を担う地質学」と50号「21世紀の構造地質学にむけて」の総説集を刊行した。ここでは、これらを読んで簡単な感想を述べ、125周年に向けての一歩としたい。敬称を略すことをお許し願いたい。

 1918年の25周年は記念大会を行ったが(山崎直方会長)、記念誌は展覧会の目録以外見当たらない。しかし、1905年の地質学雑誌12巻393-405頁に初代会長神保(じんぼ)小虎の「本邦に於ける地質学の歴史」がある。「西国の開化我国に移らんとして以来経年の短きに比して進歩の甚(はなはだ)著し」という書き出しで約30年間の日本地質学をまとめ、「要するに我国の(地質)探検は、初めは幕府及び開拓使のアメリカ人に因(よ)りて基(もとい)を開かれ、後ドイツ流にて中央政府の地質調査所起こり、之に倣(なら)って北海道庁の地質略察始まり、一方にはドイツ風を輸入せる東京大学の地質学科ありて(中略)今日の状態に達した」と結び、初期の白野夏雲の功に言及している。神保はライマンの地質調査を強烈に批判したが、ここでは彼の業績も淡々と記している。詳細は佐藤伝蔵の追悼文(1923, 地質雑 30, 図版15)、佐藤博之(1983, 地質ニュース346号)、松田義章(2010, 地質学史懇話会会報34, 35号)、浜崎健児(2011, 同36号)を参照されたい。神保は徳川旗本の家の出で、本学会は幕府側出身の会長で出発したことになる。1905年の会員数は161人だったが、会誌は創刊以来毎月発行されていた。

 1943年の50周年は太平洋戦争の最中で、東大での総会に加え北大で臨時総会と記念学術大会が開催されたが、記念誌の発行はなかった。そこで、戦争が終結して8年後の1953年に60周年記念の「日本地質学会史」(185頁)を発行した。ソフトカバーで紙質も印刷も悪いが、内容は非常に読み応えがある。編集委員長は鹿間時夫、編集委員は生越(おごせ)忠、小林英夫、牛来(ごらい)正夫、坂田嘉雄、須藤俊男、高井冬二、西山芳枝、宮沢俊弥、向山 広、森本良平、渡部景隆である。内容は、日本地質学会60年略史(早坂一郎)、日本地質学史年表(編集委員会)、部会史(古生物、鉱山、鉱物)、歴代会長名及び評議員名、研究奨励金受賞者、明治時代の日本における地質学(矢部長克)、おもいで(主に明治時代7編)、追悼の辞(鹿間)、物故者一覧(写真つき、82名)、追悼文(五十音順、86名)、各大学研究室の歴史(19教室)、新制大学地学関係教室一覧、地質調査所・博物館・研究所等の歴史、関係学会及び関係団体の歴史、外地の調査研究機関の歴史、関係会社の地質調査研究史、地質学者以外の功労者(須藤)、地質学、鉱物学会における開拓者、特(篤)志家、標本家、標本商列伝(櫻井欽一)、日本産新鉱物表(附台湾・朝鮮産)(櫻井)となっている。特に矢部と櫻井の文章は一読の価値があり、鹿間の追悼の辞も切々と胸に迫るものがある。各人の追悼文を読むと、大部分の人は病死または戦病死であるが、阿波丸に乗船していて台湾沖で「米国潜水艦の魚雷攻撃を受け同船沈没と共に戦死」、「30歳を一期に船と共に爆沈」といった記述が数件あり、「(西南太平洋にて)米軍艦船40隻の来襲を受け戦死」、「仏印寧平南方15粁チョガンにて戦死」という人もいる。一方で「地質調査所に入所間もなく任官辞令を入質して酒を呑んだということは地質開闢(かいびゃく)以来始めてだと先輩をして唖然とさせた」といった楽しいエピソードもある(この人は福井県中竜鉱山附近のクロリトイド片岩の発見者)。朝鮮、台湾、満州、中国、南洋の調査機関の歴史は各機関で指導的立場だった人が執筆しているが、樺太だけは委員長の鹿間が「執筆者不在につき代筆」している。事情は不明だが、鹿間は満州国の新京(長春)工業大学教授として1942年に赴任する前、東北大学副手だった1937年に樺太庁嘱託で南樺太を調査しており(地質雑, 45, 423-424)、そのつながりだろう。私は学部時代に彼の所属教室で過ごし、大陸からの引揚げの苦労話はよく聞いたが、この記念誌を編集・執筆した話は全く聞いておらず、「教室史」にも記事がない。1953年の会員数は1662人であり、半世紀前に比べ1桁増えた。偶然にも私はこの年に生まれた。

 1968年に発行された75周年記念の「日本の地質学—現状と将来への展望—」は610頁の黄色のハードカバー本で、編集委員長は大森昌衛、委員は青木滋、大町北一郎、杉村新、高野幸雄、松尾禎士、山下昇であり、年表委員として今井功、小林宇一、服部一敏が加わり、執筆者は共著者を含め48人に達する。75周年記念大会も委員長渡辺武男(会長)、実行委員長森本良平らにより組織された。時は佐藤栄作首相下の高度成長の最盛期、ベトナム戦争に米軍が本格介入していて、日本の大学では反戦運動や70年安保に向けての反対闘争が盛り上がりつつあった頃である。「はしがき」では「専門分野の著しい分化と大量の図書・論文の出現により(中略)他の分野あるいは学界全般の現状を知ることに著しい困難を生じている。本書は、このような問題に対処することを目ざした」と言う。この本には戦争の影は既になく、全巻学問的なレビュー集である。第I部は特別寄稿で、渡辺武男の万国地質学会議の話、矢部長克の四国構造論(英文)、坪井誠太郎の岩石学雑想が載っている。第II部は日本の地質学の展望で、各分野の23編のレビューが掲載されている。第III部は日本の地質学界の展望として、学会史年表、会員数と役員の推移、学会賞・研究奨励金受賞者、大学地学教室一覧、アンケートのまとめ、地学関係研究所、学協会、団体、賛助会員、会社、博物館、そして長期研究計画の現状が掲載されている。この年の会員数は2481人だった。

 1985年の論集(518 頁)は日本地質学の地向斜論からプレート論へのパラダイム転換の最中に出版され、今読み直すと非常に面白い。刊行委員長は端山好和、委員は兼平(かねひら)慶一郎、鈴木尉元、床次(とこなみ)正安、楡井(にれい)久、野沢保、浜田隆士、吉田尚で、編集実務は橋辺菊恵(現事務局長)が担当した。極端な地向斜派から急進的なプレート派までを網羅し、端山のまえがきはプレート論に懐疑的だが、プレート論の成立過程やそれに関わった日本の研究を見事にまとめた堀越叡の島弧論が光っている。またこの論集には、本学会のこの種の出版物では初の女性執筆者が登場する(永原裕子「日本の隕石学」)。会員数は4928人と倍増した。

 1993年発行の100周年記念誌は706頁の紺地に金文字の堂々たるハードカバー本で、編集委員長は鈴木尉元、委員は天野一男、市川浩一郎、今井 功、遠藤邦彦、酒井豊三郎、島崎英彦、鳥海光弘、端山好和、山下 昇の9名であり、執筆者は78人にのぼる(私を含む)。会長の端山は序文で「現在、日本地質学は、学問体系そのものの転換を求められている」と言っているが、この頃はもう「転換済み」だったと思う。この年はバブル崩壊後の経済停滞期で、オウム真理教の活動が不気味さを増し、2年後に阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた。ソ連崩壊の2年後、湾岸戦争の3年後、天安門事件の4年後に当たる。しかし、地質学会としては、会員数が5000人の大台を超え、前年には皇太子殿下を総裁にお迎えして第28回万国地質学会議(IGC)京都大会を成功させ、英文学術誌The Island Arc(表紙は沈み込み帯の断面図。今はTheがない)が創刊されて、100周年誌はいわば地質学会の絶頂期の記念碑である。この本の冒頭には山下の「ナウマンから江原真伍まで」、端山の「小藤文次郎」、清水大吉郎の「小川琢治」、佐藤正の「小林貞一」などの評伝があり、列島形成論の歴史、島弧論、環境、災害、地下資源、国際交流、地学教育などの各論も充実している。今井功の学会史年表は資料価値が高いが、国際誌に発表した日本の重要論文の採録が少ない。岡野武雄の「第二次大戦前・中の海外地質調査」は多くの資料に基づく労作であるが、樺太の項は短く、日本が関与して成功した北樺太の石油開発の記述がないのは残念である。

 1998年の地質学論集49号の編集委員は秋山雅彦、小松正幸、坂幸恭、新妻信明、50号は狩野謙一、高木秀雄、金川久一、木村克己、伊藤谷生、山路敦、小坂和夫で、執筆者は計78人(私を含む)、うち女性は3人である(田崎和江、清水以知子、佐々木みぎわ)。49号は平朝彦の「付加体地質学の誕生と発展」や丸山茂徳の「21世紀の日本の地質学」、陸上・海底掘削のレビュー、弘原海(わたつみ)清の「宏観異常による地震危険予知」などがある。1995年の阪神大震災を受けた杉山雄一の「活断層調査の現状と課題」もあるが原発の語は一つもない。50号はフラクタルなど2編が英語で、基礎的な構造地質学や日本列島地質構造論(磯崎行雄など)の他に月と火星のテクトニクス、応用地質のレビューがあり、「地震予知研究における構造地質学の役割」(嶋本利彦)もある。この時期は地震予知を楽観視していたようだ。会員数は翌1999年に5200人を越えたが、これ以後減少し、現在は4000人を少し下回る。

 2014年の現在まで15年間以上、この種の大きな総説集は本学会では刊行されていない。この間、日本国内では直下型の被害地震が多発して柏崎刈羽原発が被災し、ついには「想定外」の海溝型超巨大地震が発生して福島第一原発のメルトダウン事故が起きてしまった。これを受けて、原子力規制委員会による原発敷地内の破砕帯調査が開始され、本学会が推薦した委員が国民注視の中で調査を行う事態になっている。また、イタリアのラクイラ地震裁判では、地震学者や地質学者が不適切な情報を住民に伝え被害を拡大させたとして有罪判決を受け、本学会はこれに憂慮を表明した。さらに、地球温暖化の進行とともに土砂災害も増加し、地質研究者と社会の関わりが増している。最近のジオパークの発展や津波堆積物への世界的関心はその肯定的な面であろう。一方で他の惑星や衛星の地質学が発展し、その成果に基づいて地球の地質を見直す必要が出てきている。現在、70〜80年代の学問的なパラダイム転換とは異質の、科学者としての意識や価値観の転換が求められているように感じる。今、地質学の歩みを振り返り、新しい展望を示すことが、是非とも必要である。4年後の125周年に向けて、日本地質学の新たな展望を示す総括的なレビューを行うべきだと思う。
 

geo-Flash No.250 2014/2/18掲載
日本地質学会News vol.17, 3月号 p.4-5掲載