中国の月探査機「嫦娥5号」持ち帰り試料の地質学的研究結果


正会員 石渡 明
 

1.はじめに 着陸地点と調査目的

図1. 月の表側の「海陸分布」のスケッチマップ。兎が餅を搗く図柄に簡略化。海・大洋・入江以外の部分が陸地(高地)。米国アポロ(A)、ソ連ルナ(L)、中国嫦娥(C)の着陸地点や主要なクレーターを示す。

  中国の月探査機「嫦娥(じょうが)5号(Chang’e-5)」(チャンオー、eはE表記も)は2020年12月1日に嵐の大洋(兎(うさぎ)が餅(もち)を搗(つ)く臼(うす)の部分)の北部、Rümker(リュムカー)山の北東約170km、露の入江に近い北緯43.06度、西経51.92度に着陸し(図1)、地質試料の採集などを行って、2020年12月16日に内モンゴルの沙漠に帰還した。月からの試料回収は1976年のソ連のルナ24号以来44年ぶりである。2021年10月にこれらの試料の分析結果が発表されたので(Che et al., 2021; Li et al., 2021; Tian et al., 2021)、その概要を紹介する。
  着陸地点は南中時の満月の左上隅に近い場所であり(月面の地図や写真集については石渡(2016)参照)、1960〜70年代の米国アポロ、ソ連ルナの着陸地点に比べて最も高緯度である(図1)。この地点は東へ2°程度傾斜する嵐の大洋の平坦地で、東方約20kmに月面最長の蛇行する溝(Rima Sharp: 566km長、0.8〜3km幅、20〜50m深)があり、南方約20kmに残丘(kipuka)がある(Qian et al., 2021)。また、着陸地点の北西422m地点を中心とする直径394mのクレーターがある(Qiao et al., 2021)。試料採集は着陸船から腕を伸ばし、地表付近を掬(すく)い取り(A装置)、掘り取って(B装置)、帰還船に収納した他に、着陸船の直下をドリル掘削してコア試料を採取し、帰還船に収納した。持ち帰った土壌(レゴリス)・岩石試料は1731g(うち~250gは約1m長のボーリングコア)である(Head, 2021)。嫦娥5号の主目標は月の海の中で最もクレーター密度が低い(つまり、最も新しい)地域の溶岩の同位体年代を決定すること、月面全体の中でもカリウム、希土類、リンに富む特異な化学組成をもち「嵐の大洋KREEP地域」と呼ばれるこの地域の溶岩の特徴が、この新しい溶岩にも見られるかどうかを調べることである(Che et al., 2021)。
   なお、着陸地点付近の地形・地質の解析には米国と中国の月周回機に加え、日本のかぐやのリモートセンシングも役立っている(Qian et al., 2021; Qiao et al., 2021)。また、嫦娥4号が2019年1月3日に南極エイトケン盆地(直径2500kmの太陽系最大の衝突構造:Lissauer and de Pater, 2019)の南緯45.5度、東経177.6度に着陸し、人類初の月の裏側への着陸となったが、その探査車(玉兎)は現在も走行調査を続けている。
 

2.嵐の大洋の玄武岩溶岩の年代

 月の海の溶岩はこれまで米国のアポロ及びソ連のルナによって地球に持ち帰られた岩石試料の年代測定と地形学的なクレーター分布密度の測定によって、多くが30〜38億年前に噴出したことがわかっているが、嵐の大洋やスミス海にはクレーター分布密度が著しく低い領域があり、大きな新しいクレーターの周囲の光条を覆っている溶岩流もあって、最も若い海の溶岩流は10億年前程度の年代ではないかと言われていた(Spudis, 1996)。嵐の大洋にはクレーター密度年代が10〜20億年前の地域が北部、中部、南部の計3ヶ所あり、今回は北部地域に着陸した(Head, 2021; p. 21, 22)。Qiao et al. (2021)は着陸地域のクレーター密度年代を12〜22億年前と見積もった。  
  今回採集された嵐の大洋の玄武岩溶岩片のPb-Pb年代はChe et al. (2021)によると1963±57Ma(Maは100万年前)、Li et al. (2021)によると2030±4Maとのことで、12〜22億年前との予想範囲の古い方の年代値になったが、通常の海の溶岩(30〜38億年前)に比べると10億年以上若い。今回のデータは、月の歴史の中で通常の海の溶岩とコペルニクス・クレーターの形成(約8億年前)の間の放射年代の空白期間の真ん中に年代値の標石を立てたことになり、太陽系惑星のクレーター密度年代学に確かな目盛りを提供したことになる(Li et al., 2021)。
 

3.嵐の大洋の玄武岩溶岩の化学組成

 また、採集された溶岩の化学組成分析結果は、それらが嵐の大洋南部のアポロ12号地点で発見され、その東方のフラマウロ高地の同14号地点の角礫岩に大量に含まれていたKREEP玄武岩ではなく、月の海の通常の玄武岩の高Ti系列と低Ti系列の中間的な組成を持ち、非常に結晶分化作用が進んだ鉄に富む玄武岩質溶岩であることを示している。SrとNdの同位体組成もKREEP玄武岩とは起源物質が大きく異なることを示している(Tian et al., 2021; Che et al., 2021)。このことは、嵐の大洋地域が放射性発熱元素であるK、Th、Uなどに富むKREEP玄武岩地域であるから、後々の時代までマントルが熱かったために火山活動が継続したのではなく、月の普通の化学組成のマントルが20億年前までマグマを生産することができたことを示しており、従来の月の熱史を考え直す必要がある(Che et al., 2021)。
 

4.おわりに 地球科学的意義

 月の地質時代は先ネクタリア代(>39億年)、ネクタリア(神酒(みき)の海)代(39-38億年前)、インブリア(雨の海)代(38-31億年前)、エラトステネス代(31〜10億年前)、コペルニクス代(<10億年前)に区分されるが(Spudis, 1990)、今回嫦娥5号が採集した溶岩の年代値は、約20億年間にわたる長い時代に確固たる年代標準点がなく、クレーター密度の時間的変化が小さかった(Spudis, 1996; Fig. 4.8)エラトステネス代の真ん中にクサビを打ち込んだことになる(Li et al., 2021; Fig. 4)。地球上に残る天体衝突構造はこの時代以後のものであり、このクサビは地球や他の太陽系惑星の地史の研究にも有意義である。なお、月面で確認された最新の地形形成イベントの一つはティコ・クレーターの形成であり、その年代はアポロ17号が採集した破片の年代測定により1.8億年前(ジュラ紀)とされている(Spudis, 1996)。また、地球上で発見された月隕石には、嫦娥以前の月の海の玄武岩としては最も若い28.7億年前の年代を示すものがあり、これがKREEP成分に富んでいたので(武田, 2009)、月の冷却が進んだ新しい時代の玄武岩はKREEP成分に富む発熱性のマントルのみから形成されたという考えもあったが、今回の嵐の大洋の20億年前の海の溶岩の化学分析値はこの考えを否定し、月の熱史に変更を迫っている。このように、地球帰還から1年以内に、嫦娥5号が持ち帰った試料の科学研究は重要な結果を出しつつある。今後はボーリングコアの解析結果が待たれる。
  文献調査でお世話になり、原稿を見ていただいた千葉大学の市山祐司博士に感謝する。

文 献

  • Che, X. C., Nemchin, A., Liu, D. Y. et al. (2021.10) Age and composition of young basalts on the Moon, measured from samples returned by Chang’e-5. Science. https://www.science.org/doi/10.1126/science.abl7957
  • Head, J. W. (2021.4) Chang’e-5 lunar sample return mission update. Extraterrestrial Materials Analysis Group Spring Meeting April 7-8, 2021 Presentation PDF, 75p. https://directory.eoportal.org/web/eoportal/satellite-missions/content/-/article/chang-e-5
  • 石渡 明(2016)KAGUYA月面図(紹介)。日本地質学会News, 19(7), 23-24. geo-Flash http://www.geosociety.jp/faq/content0666.html 記事【9】
  • Li, Q. L., Zhou, Q., Liu, Y. et al. (2021.10) Two-billion-year-old volcanism on the Moon from Chang’E-5 basalts. Nature. https://doi.org/10.1038/s41586-021-04100-2
  • Lissauer, J. J. and de Pater, I. (2019) Fundamental Planetary Science (updated edition). Cambridge University Press, 604p.
  • Qian, Y., Xiao, L., Wang, Q. et al. (2021.3) China’s Chang’e-5 landing site: Geology, s tratigraphy, and provenance of materials. EPSL. https://doi.org/10.1016/j.epsl.2021.116855
  • Qiao, L., Chen, J., Xu, L. et al. (2021.8) Geology of the Chang’e-5 landing site: Constraints on the sources of samples returned from a young nearside mare. Icarus, 364. https://doi.org/10.1016/j.icarus.2021.114480
  • Spudis, P. D. (1990) The Moon. In: Beatty, J.K. & Chaikin, A. (eds) The New Solar System, 3rd ed. 41-52. Sky Pub. Co., Cambridge.
  • Spudis, P.D. (1996) 水谷仁訳(2000)月の科学−月探査の歴史とその将来。シュプリンガー・フェアラーク東京, 297p.
  • 武田 弘(2009)固体惑星物質進化。現代図書 131p.
  • Tian, H. C., Wang, H. Chen, Y. et al. (2021.10) Non-KREEP origin for Chang’E-5 basalts in the Procellarum KREEP Terrane. Nature, http://doi.org/10.1038/s41586-021-04119-5