永瀬清子:宮沢賢治に憧れた女流詩人の地学的側面


正会員 石渡 明

1.はじめに:赤磐の山々

  筆者は2016年8月21日に岡山県赤磐(あかいわ)市で開催された「じぇーじーねっと地質学講座」に招待され,「東アジアの地質 赤磐市の海底岩石とのつながり」の題で講演した.翌月25日,読売新聞日曜版に掲載された永瀬清子(1906〜1995)の特集(名言巡礼:文・松本由圭,写真・林陽一)を読み,宮沢賢治に憧(あこが)れて「雨ニモマケズ」詩の「発見」の現場にも立ち会ったこの女流詩人が,戦後ずっと赤磐市で農婦として働きながら詩作を続けていたことを初めて知った.翌2017年,上記講演に基づく拙著論文「岡山県赤磐市の海底岩石(夜久野オフィオライト)」が「地質技術」第7号に掲載されたが,その末尾に永瀬清子と宮沢賢治の出身地の共通点について指摘し,「赤磐市のなだらかな山々に囲まれた平野の地形は,岩手県の花巻市付近と共通した特徴があるが,それだけでなく,古生代の海底岩石が分布する地質の共通点もあり,このような地形・地質の共通点がある土地に,これら二人の自然派詩人が育ったことは,単なる偶然とは思えない」という卑見を述べて,「永瀬清子」を拙著論文のキーワードに加えた.そして本2020年,赤磐市教育委員会の白根直子氏(上記新聞特集にも登場)から,キーワード検索で拙著論文をみつけ,上述の部分を,永瀬清子の詩「都会わすれ」に関する氏の論考(現代詩手帖, 2020年10号, 134-141頁)に引用したという手紙をいただき,その後「詩人永瀬清子作品集―熊山橋を渡る−」(熊山町永瀬清子の里づくり推進委員会編,1997年)を恵贈いただいた.偶然が重なり,永瀬清子と不思議な縁ができたので,今回はこの詩人について,その地学的側面に着目して簡単に紹介する.

 

2.どんな詩か:山や河を身につけて

  まず,永瀬清子の詩の雰囲気を伝えるために,その詩句をいくつか示す.「星々は夜には/幾多の宿命を含む地上からの視線で/原始以来みがかれた鉱物だ」(詩『星座の娘』),「西の天末にはまだ猫眼石いろの光が/フットライトのように/かなたの半球のあかるみを投げあげている/…/渡り終ろうとして東の方をふりかえれば/数知れぬ星のあふれ/「オリオン!」/私は心をこめてそう呼ぶ」(『熊山橋を渡る』),「新田(しんでん)山がおだやかに横たわっていたその上すれすれに/ぴったり さそり座のアンターレス」(『アンターレス―さそり座への願い』),「木星ばかりが一つ/かがり火のように波にちりばめられている時」(『吉井川によせて』),「山や河を身につけて/私もそんなふうにして冬を過す」(『冬』),「私は自分が/深い茄子(なす)紺(こん)色の大洋の底から/火と硫黄を噴きあげる熱い蒸気であることに驚く」(『私は地球』).「地球は一個の被害者となった/今や地球はみるみるやつれた可哀想なものとなった」(『滅亡軌道』),「やがて青石のかげにかがまる時/すべての詩を書き終る…」(『捕え得ず』).次女の井上奈緒氏は,「道端に生えている小さな花でも,山の中で鳴く鳥の声,夜空の星の名前など質問すると,即座に返事がかえってくることなど…どのようにして学んだのでしょうか.私にはまねのできないことであります」と述べている(上記作品集).
 

3.略歴:岡山,金沢,名古屋,大阪,東京,岡山

  永瀬清子の作品紹介と評伝には,藤原菜穂子 (2011) 「永瀬清子とともに 『星座の娘』から『あけがたにくる人よ』まで」(思潮社),井坂洋子 (2000) 「永瀬清子」(五柳書院)がある.これらと前出の文献による永瀬清子の略歴は次の通りである.1906年岡山県赤磐郡豊田村(後に合併して熊山町,現在は赤磐市)の旧家永瀬家に生まれた.父の転勤により金沢で育ち,石川県師範学校附属小学校,石川県立第二高女を卒業.四高で万葉集講座を聴講するなどした.名古屋に移り1924年に愛知県立第一高女高等科英語部入学,上田敏の詩集と出会って詩人をめざし,佐藤惣之助に師事.1927年東大出の同郷の長船越夫と結婚,大阪に住む.詩集「グレンデルの母親」(1930,詩『星座の娘』」を含む)により詩壇に登場.1931年夫の転任により上京.北川冬彦の「時間」,「磁場」の中核同人として活動.草野心平から宮沢賢治の詩集「春と修羅」を贈られる.1934年2月に東京新宿で開かれた宮沢賢治(前年9月死去)追悼会に心平の誘いで参加し,賢治の弟清六が持参した賢治のトランクのポケットから『雨ニモマケズ』の手帳が発見される場に居合わせた.その後三好達治や高村光太郎とも交流し,「諸國の天女」(1940,光太郎が序文) でも評価を得た.1945年終戦直後に岡山へ戻り,農業をやりながら詩作を続け,詩誌「黄薔薇(きばら)」を主宰.「美しい国」(1948),「薔薇詩集」(1958),「永瀬清子詩集」(1969,1979,続1982,1990) や「蝶(ちょう)のめいてい」(1977),「流れる髪」(1977),「焔(ほのお)に薪(まき)を」(1980),「彩(いろど)りの雲」(1984) 等の短章集を多数出版.この間,ハンセン病療養所での詩の指導など幅広い社会活動に携(たずさ)わり,1952年豊田村教育委員に立候補して当選(当時は公選制),1955年に熊山町婦人会長の肩書でニューデリーの「アジア諸国民会議」に出席,「インドよ」で始まる自作の詩を英語で朗読し民衆の喝采を受け,予定外だが中国代表郭(かく)沫(まつ)若(じゃく)の招きにより帰路中国を訪問,メーデーの大行進を見る.1963年から14年間,県庁内の世界連邦都市岡山県協議会事務局に勤務.1965年岡山市に移る.10年ほど家庭裁判所の調停員を務める(『火星について』,「焔に薪を」).1986年,詩『あけがたにくる人よ』を美智子皇太子妃殿下(当時)が英訳して日本ペンクラブの機関誌に発表され,外国公館等で朗読された(後述参照).1987年の同名の詩集で優れた詩人に贈られる地球賞を,翌年ミセス現代詩女流賞を受賞.1995年死去.同年遺稿集「春になればうぐいすと同じに」(『アンターレス…』と『吉井川…』を含む)出版.
 

4.月の輪古墳:民衆による発掘

  戦後岡山県の故郷に帰り,農業で生計を立て,村人との共同作業にも参加し,四人の子(男二人,女二人)を育てながら詩作を続けるのは大変なことだったと思う.「しかし農業を自分がやってみると,労働が単純なので,仕事中に比較的頭を働かせて空想する自由があることがわかった」(『新しい生活』,「すぎ去ればすべてなつかしい日々」,1990).そして農業と詩作の合間には,学術的な活動にも参加した.『子供たちのこと,地域の人の熱意のこと』(同書)という随筆には,今は廃線になった柵原(やなはら)線沿いの「月の輪古墳」の発掘に通ったことが書かれている.1953年(筆者の生年)の夏,「岡山大学の近藤義郎先生をはじめとして,のべ1万人の農民や労働者や学生,児童までが参加」してこの発掘が行われた.「地元の村の人々も飯岡(ゆうか)小学校を本拠に総出でこの人々のための食事,宿舎をはじめとする万端の手配を引き受けた」.「この昭和28年の夏の熱気は今から思ってもふしぎな高まりを見せた.もちろんそれはその前の戦争時代にはありえない事だったし,またその後の金と機械に押しまくられる高度経済成長期に入ってはなお決して起こり得ない大きな民衆運動だったのだ.山の上は葺(ふき)石(いし)でしきつめられ,ハニワがめぐらしてあった.発掘された山の上の二つの棺は男女二体のものであるとも判った」.「私は依頼され,『月の輪音頭』を作詞した.作曲は箕作(みつくり)秋吉(しゅうきち)先生でとてもいいものになった.毎年8月15日には盆踊りのように輪になって,人々はこの発掘の成功をよろこび踊った.近くの柵原(やなはら)鉱山からもトラックで人々は参加し,皆で夜のふけるまで踊った」.その一節は,「鋤(すき)をかついでもっこを負うて/学ぶ歴史は手とからだ/ヤンレ先生も一踊り」と歌う.我々はこの時代に考古学だけでなく地学でも同様の熱気があったことを知っている.
 

5.日輪と山:正しくリアルに自分の眼で

  永瀬清子が宮沢賢治の絵について述べた『日輪と山』(「蝶のめいてい」,1977)という短章がある.「宮沢賢治が描いた絵に「日輪と山」と云う水彩画があって,高くそびえた山が真中にあり,その頂上よりやや左よりの肩に日輪が懸(か)かっている.がその日輪は山の手前にかいてある」.「はじめその絵をみた時,私はたしかにある種のよほど幼稚な童画のようだと思い,そこが却って面白いと思い,一方,又へんにも思ったが,山の手前に太陽があるのは,宮沢賢治の主観的な空想か誇張にちがいないと思った」.「しかし,私は実際にどのように見えるものか,宮沢賢治がどの程度に主観をまじえて描いたのかを知ろうと思い,ある朝太陽が熊山をはなれるのを待って東の窓に立っていた」.「所が不思議不思議…その時強い光線はかがやきわたり…山の尾根の線はかき消され,すっかり見えなくなってしまったではないか.それは賢治の絵と全く一致しており,それによってまさに賢治の絵がリアリステックに正しい事を知った」.「この事実を,私は正しくリアルに自分の眼でみたことがなかったのを,この時はじめて知ったのであった――」.これは実に科学的な態度である.
 

6.元日:やさしさと芯の強さ−賢治との違い

  永瀬清子には感謝を込めて母親を詠(よ)んだ『元日』という詩がある(「私は地球」,1983).元日に熱が出て寝ていたら,「私と共に/60才になってはじめて百姓になられた母は/今日は私にかわってきれいなお雑煮をつくって下さった」,「お昼からだんだん暖くなって/ふと私の生まれた時を思う」,「その時の若かった母が/この長く閉ざされていた古い家で/再び別れていた私とも一緒になり/かぼそい身体でありとあらゆる事をして下さる」と言う.石牟礼道子は清子の詩を,「三十年も五十年も…さまよい生きるだけの人生の幼な子への,天のごほうび」と呼び,その「うるわしさに涙ぐんだ」(「流れる髪」,1977の帯). 永瀬清子は『微塵(みじん)の一粒−宮沢賢治さんにむかう私−』(「女詩人の手帖」,1951),『賢治思慕b 微少なものへの味方』(「流れる髪」,1977),『あの方の父上は−一番下っぱの弟子のことば』(「春になればうぐいすと同じに」,1995)などの文章で宮沢賢治への憧憬(しょうけい)を表明している.しかし,賢治は『銀河鉄道の夜』でカムパネルラの父親に川岸で時計を見ながら「もう駄目です.落ちてから45分たちましたから」と冷静に言わせたり,『グスコーブドリの伝記』で飢饉(ききん)の時にブドリとネリを家に置き去りにして父母が森の中へ失踪(しっそう)してしまったり,親に厳しい傾向がある.賢治は盛岡高等農林学校で学んだ技師・教師として農民を指導しようとしたが,この人は自ら農民になり切った.賢治は浄土真宗の家に育ったにもかかわらず家業を継がず日蓮宗系の団体に入って法華経を信仰したが,この人は弾圧された僧侶(法中(ほっちゅう))をかくまうための窓のない隠し部屋を持つ日蓮宗不受不施派の旧家に生まれ(『田植と不受不施』,「蝶のめいてい」,1977),家督相続人としてその家を守った.なお,この家は「永瀬清子の里」に保存されていて,近くに展示室もある(JR山陽本線熊山駅徒歩20分).
 

7.降りつむ:走り寄る人

  美智子皇后(現上皇后)陛下 (2019) の「降りつむ」(皇后陛下美智子さまの英訳とご朗読 宮内庁侍従職監修 毎日新聞出版編 毎日新聞出版(朗読DVD付))には,永瀬清子の『降りつむ』(「美しい国」,1948,楽譜つき),『夜に燈(ひ)ともし』(同書),『あけがたにくる人よ』(前出)の原文,英訳,そこに至る経緯と前2詩の陛下による朗読が収録されている.永瀬清子は『縄文のもみじ―ある人に』(「あけがたにくる人よ」,1987,縄文は後に弥生へ変更)で「あなたは私の詩をきいて/一度でそのフレーズを覚えて下さった/やさしい人 あなたは遠い遠い人なのに/一心に走り寄って下さった」と感激している.
 

8.終わりに:宇宙や地球との時空的一体感

  永瀬清子は言う.「詩人はただ美しいある性質を求める仕事なので,本当は「井戸掘り」とか「鉱夫」などと同じものだ」(『詩人』,同書).彼女は宮沢賢治の弟子を自任し,賢治が目指したものを生涯実践し,生前の社会的貢献においては賢治を超え,美しい作品を多く創り出したと思う.彼女の天体や鉱物に関する知識は,彼女が宮沢賢治を知る以前に印刷された『星座の娘』などにも表れており,おそらく学生時代に身につけたものと思われる.「幾億年古い世より/私は在るらしい/…/我が思いは/なつかしき星空へ/…/かの慣れし琴に倚(よ)らんと/わがいのちいま銀河に近づく」(『天空歌』,「大いなる樹木」,1947),「私は地球だ./そこに生きていてそしてそのものと同じだ.」(『私は地球』,「海は陸へと」,1972)といった詩句に見られる宇宙や地球との長大な時空的一体感は,女性的な「やさしさ」,「うるわしさ」とともに,この詩人の大きな特徴だと思う.宮沢賢治の地学者としての側面については既に複数の論考がなされてきたが,永瀬清子の地学的な側面についての研究はこれからだと思う.この拙文が,自然と人間への深い共感と洞察に満ちた永瀬清子の美しい詩の世界へ読者をいざなうことができれば幸いである.

謝 辞:貴重な書籍と資料をご恵与いただいた赤磐市教育委員会熊山分室学芸員の白根直子氏に感謝する.拙稿を読んで貴重なご意見をいただいた同氏と日本地質学会執行理事の小宮 剛氏に感謝する.赤磐市での講演会に招待いただいたNPO法人地球年代学ネットワークの板谷徹丸理事長に感謝する.