唐詩にみる石と人の関わり:白居易の「青石」考

 

正会員 石渡 明

1.王維の危石
唐詩において,石は自然(山水)を代表する点景として用いられることが多い.詩仏と呼ばれる盛唐の王維(おうい)(701?-761)の「香積寺(こうしゃくじ)を過る(よぎる)」には,「泉声(せんせい)は危石(きせき)に咽び(むせび),日色(にっしょく)は青松(せいしょう)に冷ややかなり」という,谷川の急流が切り立った岩に当たる音と,松林に差し込む落ち着いた日光の色を対置した,非凡な対句(ついく)がある.香積寺は唐の首都長安(陝西省西安(せんせいしょうシーアン))南方にあったが,唐朝の高級官僚だった彼は長安東方40kmの藍田(らんでん)に広大な別荘をもち(輞川荘(もうせんそう)),敷地内の各所に鹿柴(ろくさい),竹里館(ちくりかん)などと名づけて詩友裴迪(ばいてき)とともに遊歩し絶句を賦(ふ)した(輞川集).「空山人を見ず 但(た)だ人語の響くを聞く 返景深林に入り 復(ま)た青苔(せいたい)の上を照らす」(鹿柴),「独(ひと)り坐)ざ)す幽篁(ゆうこう)(竹やぶ)の裏(うち) 琴を弾じ復(ま)た長嘯(ちょうしょう)  深林人知らず  明月来たって相照(あいて)らす」(竹里館)などの名詩はここで作られた.近くには藍田山があり,古くから玉(ぎょく)を産した.そこの山寺を訪れた王維の「藍田山の石門精舎(しょうじゃ)」詩には,「澗芳(かんほう)人衣を襲い(おそい) 山月(さんげつ)石壁(せきへき)に映ず」という対句がある(谷間の花の匂いは人の衣にしみとおり,山の月は岩の壁に映る(まことにこの世の浄土である):都留春雄「王維」中国詩人選集6岩波書店1958).

2.杜甫の孤石
詩聖と呼ばれる盛唐の杜甫(とほ)(712-770)も,石の扱いは王維と同様である.「秋花危石の底(もと) 晩景臥鐘の辺」(秦州雑詩二十首の六),「杖(つえ)に倚(よ)りて孤石を看(み) 壺を傾けて浅沙に就く」(「春帰」唐詩選巻四,金沢大学の石渡ページに拙訳あり)のように石は景色の一部でしかなく,石の種類などどうでもよく,石と人の関わりは薄い.ただし,杜甫には「連山西南を抱き 石角皆な北に向かう」(「剣門」)のように,蜀(しょく)(四川省(しせんしょう))の南部の少数民族が反抗的なことを石の角に例えた例がある(黒川洋一「杜甫 上・下」中国詩人選集9・10岩波書店1958).

3.李白の盤石
一方,盛唐の李白(りはく)(701-762)は詩仙と呼ばれ,「白髪三千丈」(秋浦歌),「千里の江陵一日にして還(かえ)る」(早(つと)に白帝城を発す),「百年三万六千日 一日須(すべからく)傾くべし三百杯」(襄陽(じょうよう)歌)のような豪放磊落(らいらく)な詩句で有名だが,実は全く雰囲気の異なる「社会派」の詞も多く作っている.彼の「丁(てい)都護(とご)歌」は,運河建設に駆り出された人々の労苦を,昔その土地で善政を敷いた地方官を慕(した)う民謡の替え歌の形で表現し,石への恨みを借りて暗に皇帝の政策を批判している.(江蘇省(こうそしょう)の揚子江(ようすこう)下流域,現在の丹陽市の)「雲陽から運河を上る 両岸には商店が並んでいるが 呉牛(水牛)が月に喘(あえ)ぐほど 船を引くのは何と苦しいか 水は濁っていて飲めない 壺の水は半分が土になる (気晴らしに)一度(ひとたび)都護の歌を唱(うた)えば 心(こころ)摧(くだ)けて涙は雨の如し 万人が盤石を鑿(うが)つも  江滸(こうきょ)(揚子江岸)に達するに由(よ)し無し  君看(み)るや石の芒碭(ぼうとう)(荒涼・巨大)たるを  涙を掩(おお)っても悲しみは千古たり(千年も続く)(意訳)」(武部利男「李白 下」中国詩人選集8岩波書店1958に基づく).

中国では隋(ずい)の煬帝(ようだい)(569-618)が大規模な運河の開削工事を行ったが(白居易(はっきょい)の「隋堤柳」詩参照),運河や水路の工事は現在まで延々と続いている.唐代の運河の旅の様子は慈覚大師円仁(えんにん)(794-864;838-847は唐に滞在)の「入唐(にっとう)求法(ぐほう)巡礼行記(ぎょうき)」(東洋文庫)にもリアルに描かれている(ライシャワー著,田村完誓訳「円仁 唐代中国への旅」講談社学術文庫1999も参照).円仁の旅行記はマルコ・ポーロの「東方見聞録」(1298成立)より350年も前の中国の様子を客観的かつ詳細に伝える世界史的な記録である.なお,王維には,唐の高官になった阿倍(あべの)仲麻呂(なかまろ)(698-770;中国名晁衡(ちょうこう))が帰国する際の,長い序文つきの「秘書晁監の日本国に還(かえ)るを送る」という詩があり,李白は阿倍が帰路の海難事故で死んだと聞いて「晁卿衡を哭(こく)す」詩で追悼した.これらは日本と中国の2000年の交流史の中で最も美しい記念碑であろう.ただし,実は阿倍は救助され,その後長安に帰って復職し,そこで客死した.

江蘇省の石に戻ると,私たちが1990年頃に蘇魯(スールー)超高圧変成帯の調査をした時も,新しく開削された水路沿いの連続露頭が,平原の地質構造の把握にとても役立った(江蘇省東海県和堂地区,石渡ほか1992松本徰夫教授記念論文集393-409).しかし,人力だけで岩盤を掘削して運河を切り開く作業は,李白が言う通り大変な苦労だっただろう.地質図を見ると,丹陽市周辺の岩盤は,原生代,古生代,中生代の堆積岩と花崗岩からなっているようだ.

4.白居易の青石
王維の別荘に近い藍田(らんでん)山の石については,中唐の白居易(はっきょい)(白楽天,772-846)の「青石」(副題は「忠烈を激(はげ)ます也(なり)」)という長文の楽府(がふ)体の詞がある.この詞は,彼が朝廷の左拾遺(さしゅうい)(皇帝の過失を諫(いさ)める官)だった35歳頃の作と思われる.「青石は藍田山より出(い)ず  車を兼(つら)ねて運載し長安に来たる  工人磨琢(またく)して何に用いんと欲する  石は能(よ)く言わず我(われ)代わりに言わん」で始まり,青石に成り代わって「人家の墓石にはなりたくない 墓の土がまだ乾かぬうちに名はすでに滅ぶ 官家の徳政碑にはなりたくない 実録を彫らずに虚辞を彫る(意訳)」と言う.そして「顔真卿氏や段秀実氏の碑になりたい」と願う.顔氏は盛唐を揺るがした安禄山の反乱(755)に際して独り義軍を起こしてこれを討ち,魯国公に封じられたが,後に李希烈の反乱の懐柔宣諭(かいじゅうせんゆ)に赴(おもむ)き,李の誘惑や脅迫(きょうはく)に屈せず,李に殺された.段氏は朱泚(しゅせい)の反乱に加わるように誘われたが,怒って朱を殴(なぐ)ったため,朱の一味に殺された.「義心は石の若(ごと)く屹(きっ)として転ばず  死節(死を恐れぬ忠節)は石の若(ごと)く確(かく)として移らず」,「長く不忠不烈の臣をして  碑を観(み)て節(心根)を改め(顔氏と段氏の)人と為り(人格)を慕(した)わしめん」と謳(うた)い,最後は「人と為りを慕わしめ 君に事うることを勧めん」と結ぶ(高木正一「白居易 上・下」中国詩人選集12・13岩波書店1958に基づく.以下も同様).

「長恨歌(ちょうこんか)」や「琵琶行」等の感傷詩,「香鑪峰(こうろほう)下…」等の閑適(かんてき)詩で有名な白居易だが,若い頃は「青石」等の風諭(ふうゆ)詩を多数作った気鋭の硬派官僚だった.他方,王維は安禄山の反乱軍が長_安を占領した時,逃げ遅れて捕らえられ,心ならずも反乱軍の役人になった.反乱平定後,死罪になるべきところ,弟らの尽力で助命された.色々ある石から藍田の石を選んだ白居易の「青石」詞は,「不忠不烈の臣」として藍田ゆかりの王維が念頭にあっただろう.

それはさておき,青石は碑文を彫るのに適した平らで堅い石らしい.藍田山には玉(ネフライトまたはひすい)が産するそうなので,たぶん緑色(りょくしょく)片岩(へんがん)なのだろう.日本でも三波川(さんばがわ)帯の緑色片岩を秩父(ちちぶ)青石(あおいし),紀州(きしゅう)青石,伊予(いよ)青石等と言う.藍田は秦嶺(チンリン)・終南山(ジョンナンシャン)(Qinling-Zhongnanshan)世界ジオパークの根拠地の1つで,秦嶺造山帯は大別山(ターピエシャン)・蘇魯(スールー)地域に続く超高圧変成帯を含むが,藍田の主要テーマは藍田原人と花崗岩で,青石は含まない.私は第30回万国地質学会議の際,長安から約900km北西の祁連(チーリェン)山脈のオルドビス紀の藍閃石(らんせんせき)片岩(へんがん),エクロジャイト,オフィオライトを巡検した( 石渡1996; 地質雑, 102(10),XXVII-XXVIII, 918).そこは我々のモンゴルの古生代付加体の海洋底岩石の研究地(Erdenesaihan et al. 2013;JMPS, 108,303-325)とよく似た「天は蒼々(そうそう) 野は茫々(ぼうぼう)  風吹き草低(た)れて  牛羊を見る」(敕勒(ちょくろく)歌)風景だったが,秦嶺は王維の詩句の通り緑濃い山紫水明の地である.

5.白居易その後
白居易は王維の死の約10年後に生まれた人で,どちらも官途に就いて出世した自然派詩人だが,白居易が憧憬(しょうけい)を表明する先輩詩人は,同時代で年長の韋応物(い おうぶつ)(737?-804?)や400年前の陶淵明(とう えんめい)(365-427)であり,王維は無視している.今回青石の詞を考えてみて,その理由がわかったような気がする.30歳台の白居易は「胡旋の女」という詞で西域の歌舞の流行に警戒を促し,「両朱閣」という詞(副題は「仏寺の寖(ようや)く多きを刺(そし)るなり」)で仏教の流布を批判しており,左拾遺という仕事柄もあり国粋主義的だったので,外来の仏教を篤く信仰した王維を嫌っていたと思われる.王維のように朝廷の高級官僚でありながら反乱軍に投降,協力した人を,若くて忠誠心が強い白居易は許せなかったのだと思う.

ところが,白居易は39歳の時に3歳の愛嬢を失い(「念金鑾子(きんらんし)」,「病中哭金鑾子」詩参照),続いて母を失って喪に服し,この頃から次第に変節して仏教に帰依するようになった.そして44歳の時,ある官僚を刺した賊を捕らえるよう上疏したところ,これが越権行為と判断され,江州(江西省九江市)司馬に左遷された.46歳頃の「水に臨んで坐す」詩では,「昔は宮中の客となり 今は僧団の人となる 水に臨んで座禅をするに 昔を思えば前世のようだ(意訳)」と心境の変化を述べた.50代後半からは洛陽に住み,70歳の時には「在家出家」という詩で「中宵(ちゅうしょう)(夜半)入定(にゅうじょう)(瞑想)し跏趺(かふ)して坐し(座禅し)  女(むすめ)喚(よ)び妻呼べども都(すべ)て応(こた)えず」と嘯(うそぶ)き,71歳の「刑部尚書(ぎょうぶしょうしょ)(法務大臣)致仕(停年退官)」では「路に迷い心廻(めぐ)りて因(よ)って仏に向かい」と白状し,自分を「毘耶(びや)長者白尚書」と名づけている(正式な号は香山居士).毘耶長者は維摩詰(ゆいまきつ)の別称であり,なんと王維も自分を王摩詰と呼んでいた.人間は結局,成りたくないと思っていたものに成る実例である.なお,更に皮肉なことに,白居易74歳(死の前年)の845年,唐の第15代皇帝武宗は道教以外の一切の宗教を禁じ,「会昌の廃仏」を断行して,多数の仏寺を廃し僧尼(そうに)を還俗(げんぞく)させた.当時長安に滞在中の円仁はこのため帰国を余儀なくされたが,この前後の混乱と脱出行を詳細に記録したのは流石(さすが)である.翌年には武宗が死に,宣宗が復仏の詔を発したが,昔は仏教の流布を論難し,今は仏道の恩沢に安居する最晩年の白居易は,この騒動をどう思ったのだろうか.

追 記
香港の東京小子氏は2009年に「石頭(いしころ)他朝成翡翠(ひすい)―中国文化中『青石』的寓意」(http://www.weshare.hk/tokyoboy/articles/1867198)を発表し,唐詩における青石の用例を多数挙げ,特に白居易が様々な寓意を込めて青石を用いたと指摘し,青石は「中国文化の精神の中で,単に物質鑑賞的価値をもつだけでなく,特定の精神文明的寓意を含み,細心の観察と研究を要する」と述べている.しかし,小論で述べたような,白居易が青石に忠烈を語らせた理由や背景の考察はない.また,用例の中で,「雨余青石靄(かす)み  歳(とし)晩(く)れて緑苔(りょくたい)幽(くら)し」と詠んだ「王緯」は王維だと思う.そして,韓愈(かんゆ)の「岣嶁(こうろう)山」詩の「岣嶁山尖神禹碑 字青石赤形模奇」(尖を前とする本も)は,「字青く石赤くして形模(かたち)奇なり」と読み,この碑は赤い石で,青石ではないと思う(「青石に字すること赤く」とも読めるが,苦しい).
ところで,この神禹(禹王)碑の碑文は,石碑の碑文としては中国最古とされ,複雑な形の奇妙な字が9行77個並んでいて,「甲骨文研究家の郭沫若(かく まつじゃく)先生(日本に留学)が3年間研究したが3字しか読めなかった」と言われるほど難読である.韓愈は上に掲げた句に続いて,これらの字を「蝌蚪(おたまじゃくし)が身を拳(まる)め薤(らっきょう)の葉が披(ち)ったよう」と形容している.この碑文の内容は,(紀元前2000年頃に)中国最初の王朝「夏」を開いた禹王が黄河の治水に成功したことを讃える文章とされているが,禹王とは無関係の春秋時代(紀元前600年頃)の戦勝記念碑だという説もある.この碑は宋代に行方不明になったが,多数の拓本と複製が各地に残っている.しかし,2007年7月,湖南省衡陽市衡山県の農家から約1000年ぶりにこの碑が発見されたことが報道された.その石は桃の形の花崗岩とのことなので(http://www.china.com.cn/culture/txt/2007-08/06/content_8634638.htm), やはり青石ではなく赤い石なのだろう.

なお,禹王に関連した石碑(文命碑とも呼ぶ)は日本にも多数あり,水害を治めた神様の碑ということで,江戸時代から現代まで,堤防やダムの竣工記念(兼水害防除のおまじない)に設置された(村上三男2011「中国4000年前の治水神 禹王(文命)との“であい”」 www.jsokuryou.jp/Corner/shibu/03kanto/201001/kt1101_10-11.pdf).日本と中国の間には,古くから仏教,文学,政治,医学等の分野のみならず,このような地学・土木分野のつながりもあったのである.禹王の功績を讃える「地平天成」という語に由来する「平成」の世が押しつまった今年も,豪雨による深刻な水害と多くの犠牲者が出ており,「疎通」の方策など,まだ4000年前の禹王の治水に学ぶことが多いように思う(王敏2014「禹王と日本人 「治水神」がつなぐ東アジア」NHK Books 1226).