〜2018年日本地質学会創立125周年を記念して〜

 

トリビア学史 15  客死した鉱山学者ヘルマン・リットル


矢島道子(日本大学文理学部)
 

図.明治天皇開成学校臨幸(東京帝国大学,1932より).場所は,現在の学士会館(千代田区神田錦町).

はじめに
 明治初期,開成学校に優秀な鉱山学者ヘルマン・リットル(Hermann Ritter 1827–1874)がいた.ところがリットルは天然痘で1874(明治7)年に死亡し,後任の地質学の教授が必要になった.良く知られている通り,1875(明治8)年エドムント・ナウマン(1854–1927)がやってきて,東京大学地質学教室の初代教授に就任した.地質学史上ナウマンが,日本に地質学をもたらしたことになっている.歴史に「もし」はないけれど,リットルが生きていたら,ナウマンは日本に来なかったかもしれない.
 
東京日日新聞から
 リットルの顕彰碑が谷中霊園にあることもあって,リットルの情報はコンピュータで検索すれば多く出て来る.しかしながら,オリジナルの情報はなかなか出てこない.東京日日新聞1875(明治8)年1月28日(第919号)にリットルの記事をみつけたので,再録する.
 東京日日新聞は1872(明治5)年に創刊され,毎日新聞の前身である.基本的に4面で,1面には政府関係の記事などが載っていて,現在の官庁の広報の感じがする.その後,雑報,外報,電報,寄書,広告と続く.1877(明治10)年ころの編輯人であった福地源一郎は後に社主になり,そして戯曲作家になる.
 東京日日新聞記事は以下のようである.

明治七年十二月中澣東京開成學校教授獨逸人ドクトルヘルマンリットル君不幸ニシテ天然痘ニ感ス氏ノ始メ其患ニ罹ルヤ同校速ニ宮内省御雇醫官獨逸人ドクトルホフマン氏ヲ延請シ之ニ治療ヲ托シ百万其術ヲ施シ且養生看護至ラザル處ナシト雖モ其効ナク同月廿五日遂ニ死去セリ同月廿六日其壽函ヲ横濱ニ送リ之ヲ埋葬ス此日同國人ハ勿論官員生徒及同氏ノ眷遇ヲ受ケシ者愁然トシテ棺車ニ從ヒ陸續横濱ノ墓地ニ到レリ嗚呼今氏逝矣豈啻開成學校生徒ノ不幸ノミナラン抑又我國教育ヲ賛成スルノ一人ヲ失ヘリト云フ可シ實ニ悲痛哀哭ノ至リニ堪ヘス因テ今爰同氏ノ履歴ヲ畧記ス○ヘルマンリットル氏ハ彼一千八百廿七年ヲ以テ獨逸國「ハンノーウエル」ノ「ヒルデスハイム」ニ生レ「ゲツチンケン」ニ於テ學ヲ攻メ其業未タ成ラザルト雖モ既ニ北米合衆國「セエントロイス」ヨリ化學製造場ノ長ニ招聘セラレ此ニ滞在スルヿ五年ニシテ職ヲ辭シ獨逸ニ歸リプロフェツソール「ウエレル」氏ニ從ヒ勵妖慘和欣椽僂鮓脩シ遂ニ「フヰロソフヰー」ノ學士トナル后チ幾ナラス魯國「モスカー」ノ近傍ニ化學製造場起立ノ企テアリ然リト雖モ未タ其ノ人ヲ得ス因テ氏ヲ遠ク獨逸ニ聘シ託スルニ此事ヲ以テス氏モ亦之ヲ憺當シ夙夜黽勉遂ニ能ク其ノ功ヲ奏シ以テ魯國ノ望ミヲ全フシ又獨逸ニ歸レリ尋テ魯西亜ニ再遊セントスルニ際シ本邦加州ノ藩主ニ招聘セラレ彼一千八百七十年始メテ我國ニ來レリ然ルニ其着港ニ方リ廢藩立縣ノ擧アルニ遇フ於是轉シテ大阪理學校教師ニ聘セラレ理化學教師トナレリ是明治三年十二月ナリ此時該校ニ英佛兩國ノ學アリ然ルニ氏能ク兩國ノ語ニ通スルヲ以テ英佛生徒ノ授業ヲ兼テ日ニ此ノ二國ノ語ヲ以テ理化學ノ大意ヲ講述セリ現ニ今世ニ刊布セル理化日記ハ乃チ氏ノ日講ヲ譯シテ編成セルモノナリ同六年三月東京ニ來リ開成學校鑛山學教師トナリ専ラ理化學ヲ教授セリ抑モリットル氏ノ人トナリ巖格周密且博學多識其生徒ヲ教導スル極テ黽勉ニシテ其懇切ナル恰モ父母ノ其子ニ於ルガ如ク毫モ愛憎アルナシ是以該校官員及外國教師等皆能ク之ヲ敬遇セザルハナシ嘗テ増給ヲ以テ氏ヲ聘セントセシモノアリ氏肯ンセスシテ曰ク開成學校ニシテ余ヲ棄ツルニ非ルヨリハ余生徒ノ成業ヲ見ズシテ去ルニ忍ビズト其忠志以テ見ル可キナリ氏ノ同校ニ職ヲ奉スル未タ久シカラズト雖モ生徒ノ業大ニ進脩セシハ實ニ氏ノ功多キニ居ルト云可シ故ニ其卒スルヤ文部省及同校大ニ之ヲ痛惜シ其在務中ノ勤勞ヲ追賞シテ日本金貨三百五十圓ヲ其家ニ贈レリ蓋シリットル氏ノ如キ學術精竅且性行脩整ナルハ方今本邦在留ノ歐米人中恐クハ多オアラザル可シ然ルニ今斯人ニシテ此ノ凶酷ニ罹ル嗚呼誰カ哀惜悲痛セセサランヤ 開成學校ノ吏員某
 
リットルの生涯をかいつまんで記す.リットルは来日の前にアメリカやロシアで働いていた.加賀藩の招請で来日したが,1870(明治3)年12月乞われてハラタマ(Koenraad W. Gratama)の後任として大阪府理学校教師となり,理化学と英仏語を教えた.1873(明治6)年月東京開成校鉱山学講師になったが,天然痘にかかり,ドイツの名医ホフマン氏に治療を依頼したけれども没した.
 
天覧授業
 東京帝国大学五十年史(1932)によれば,明治天皇はしばしば,開成学校や東京大学に行幸している.第1回は1872(明治5)年3月29日,第2回は1873(明治6)年10月9日である.第2回には第1大学区東京開成学校[正式名]開業式に臨席し,その後,7つの授業(法学生徒の法律の起源の講述,理学生徒3名の化学実験,諸芸学生徒3名の大気の性質についての論述,リットルの講義・実験,機械製作所でポンプの製作・使用,体操場で気球の飛揚,体操)を参観した.リットルの授業内容は鉱山学生とともに,アマルガムを作ったり,硫黄・硝石・木炭を混合して爆発させたりするものであった.通訳は安東清人(1854–1886)が行った.安東清人は1870(明治3)年熊本藩の貢進生として入学し,1875(明治8)年7月にフライベルク鉱山学校に官費留学したが,病にかかり1877(明治10)年には帰国した.
 
文 献
東京帝国大学,1932,東京帝国大学五十年史.