トリビア学史10 韃靼の地質調査—榎本武揚,オッセンドフスキ
矢島道子(日本大学文理学部)
図1『榎本武揚 シベリア日記』(2008)より |
はじめに
司馬遼太郎の最後の小説『韃靼疾風録』を知っている人も少 なくなった.韃靼といっても,もうほとんど通じないかもしれ ない.モンゴル付近に住んでいる(いた)タタール人のことを 韃靼という.戦前は,韃靼ということばはある程度知られてい た.日本で間宮海峡といわれている地名は,世界的にはタター ル海峡(韃靼海峡)と呼ばれている.
『韃靼』の地質学者を探しているうちに,榎本武揚が浮上し てきた.榎本武揚と地質学とのかかわりにまずふれたい.
榎本武揚
榎本武揚(1836-1908)は,1879(明治12)年,渡辺洪基ら と東京地学協会を立ち上げた.しかしながら,榎本にどれくら いの地質学の素養があったのかは知られていない.彼が執筆し た『シベリア日記』に露頭のスケッチと砂金地の記載が載って いるので,それを紹介して,読者の判断を仰ぎたい.
榎本の一生は波乱万丈でとても書ききれないので,シベリア 日記に関係することだけ記述する.榎本は,ロシア特命全権公 使に決まった澤宣嘉が1873年10月に病死したので,代役として 1874(明治7)年1月18日,駐露特命全権公使に任命された.榎 本の前職は北海道開拓使で,それも,1872(明治5)年1月6日 に出獄し,3月8日から出仕したのだ.1874(明治7)年1月14日 には海軍中将も拝命している.
ロシア滞在中の1875(明治8)年5月7日に,榎本はロシア外 務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約を 締結し,その後もしばらくロシアに滞在した.
1878(明治11)年7月26日,ようやくのことで,榎本はサン クトペテルブルクを出発し帰国の途に向かう.帰途の詳細な報 告が『シベリア日記』である.榎本はロシアの実情を知ること を目的にシベリアを横断した.モスクワを経てニジニ・ノヴゴ ロドまで,まず鉄道で行く.途中,韃靼人をよく観察している. その後は,船と馬車を乗り継ぎ,9月29日にウラジオストック に到着する.馬車の揺れと虫刺されでは難儀をしたようである. ウラジオストックで黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗 船し,10月4日小樽に帰着.札幌滞在の後,10月21日に帰京し た.
日記を読んでいくと,8月4日ペルムにて「ゲネラル某よりペ ルムのゼオロジカルマップ(地質図)と写真壱枚を得たり」と いう1文が出てくる.また,砂金地を熱心に観察し,地質用語 としては,ケレイ(粘土),フルハルデケレイ(凝固粘土),ペ ルム・フォルマーシー(ペルム系,)トッパーズ(いはゆるウ ラルセ・ブリヤント(ウラル宝石),クワルツ(石英),ボラッ キス(硼砂),カオリン(白陶土),スラック(鉱滓),ラーピ ス(硝酸銀)なる物質名が並び,トルフ(泥炭)やガラニート (花崗岩)なる名詞も並ぶ.榎本の,露頭のスケッチ(図1) には,「上からaは土,bは砂礫交じりの赤土,1〜4は赤土だ がクワルツ[石英]の片屑を多く含み,砂金をはらめる土で, 下のcはまた金をはらまない赤土」と記載がついている.
オッセンドフスキ
トリビア学史8で篠本二郎を追っていくうちに,傍系の学者 として,『韃靼』の著者衛藤利夫を知った.『韃靼』を読み進め るうちに,オッセンドフスキという地質学者が登場してきた. 『韃靼』中の「辺彊異聞抄」で,衛藤は「オッセンドウスキイ 博士と言えば,有名なポーランドの地質学者で,曾て王朝時代 のロシアの政府から頼まれて,北満州の辺彊を踏査したことのある人だ.その目的は,地質学者として石油鉱や金鉱を探すこ とで,今日の満洲ゴールド・ラッシュの先縱を成すとまあ言え るワケだが,本職以外の副産物として世界の読書界にとんでも ないスリルを送った.即ち北満州の神秘境を描いた『アジアに 於ける人間と神秘』の文学的労作これである」と書いて,いく つか秘話を紹介している.
オッセンドフスキの原著は,フランス人の協力のもとに, 1924年に英語版で出版された.衛藤の「辺彊異聞抄」の初出は 1932(昭和7)年12月である.その後,『アジアに於ける人間と 神秘』は,1941年,43年に日本語の翻訳が出た.
翻訳本(1941年)によれば,オッセンドフスキは,「10カ年 間に亙って私は,多くの時をそこ(シベリア)で過し,石炭, 塩,金,石油脈の研究に従事し,また多くの鉱泉,薬泉の調査 を以て科学的探検を企てたこともあった」と記しているが,そ の地質学者としての業績がまだみつかっていない.戦前の日本 の大陸での地質調査報告をいくらあたってもオッセンドフスキ の名は出てこない.不明なことが多い.調べた限りで見つかる 人物は,ポーランド生まれのオッセンドフスキ(Ossendowski, Ferdinand, 1876-1944)である.彼はロシアの革命に巻き込ま れ,シベリアに投獄もされて,いろいろな経験を経て文筆家に なり,現在では『小説レーニン』が1番有名なようだ.ポーラ ンドの地学史研究家に問い合わせているが,明確な情報はまだ 得られていない.
文 献