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トリビア学史 8 傍系の地質学者 篠本二郎(1863-1933)


矢島道子(日本大学文理学部)・浜崎健児(Ultra Trex(株)))
 

写真 篠本二郎,木下(1933a)より


はじめに
鉱床学者,木下龜城(1896-1974)が1933年,『我等の礦物』誌に篠本二郎の追悼文を書いている.略歴も著述目録も詳しく載っている.にもかかわらず,巷では生没年不詳となっているものが多い.本人も自伝のようなものを書かず,木下のほかには評伝や弔辞を書かなかったことが,そうなっている原因だと言えそうだ.こう紹介すると篠本の名は歴史から消えかかっているように思えるが,彼の交友関係は思いのほか広い.
 
夏目漱石の幼友達
昭和3年版『漱石全集』月報第2号に篠本は「腕白時代の夏目君」を書いた.これは岩波文庫『漱石追想』に再録されている.主題は当然ながら漱石の想い出であるが,ここから,篠本の出自,人生を知ることができる.篠本は夏目と「明治6[1873]年ころ,牛込薬王寺前町の小学校3級で同じ腰掛に座を占めていた」と書かれている.岩波文庫には注もついていて,夏目は1876(明治9)年に市谷柳町の市谷学校第3級に転校したという.いずれにしろ,篠本は1863(文久3)年生まれで,1867(慶應3)年生まれの夏目より少し年上ということになる.篠本の家は「二百年も住みなれた牛込区甲良町」にあった.「余の家も信玄の旗本にて,勝頼天目山に生害せられし後,徳川家に降りて家臣となった」と書いている.篠本二郎は,江戸中期・後期の儒者で奥右筆であった篠本竹堂(1743−1809,『北槎異聞』の筆録者)の孫であったことがわかってきた.
二人ともなかなか腕白な幼少期を送った.篠本の文を読む限りでは,篠本の方が腕白だったようだ.篠本の「両親は余に英語学校に入学することを勧めた.然し当時英語学校は希望者多くして」,「外国語学校の仏語学に入学して,その間別に英語を修めて英語学校に入りて後,大学予備門に進んだ」.そして,「夏目君の如きも,後余と共に,図らず同じ熊本五高に教鞭を執り,中年以降顔を合わせる事になった」と書いている.熊本五高教師の前,篠本は何をしていたのだろうか.
 
傍 系
篠本は「初め東京帝大化学科に入り,化学を専攻したが,実験中負傷され退学し,明治17[1884]年改めて地質学科の聴講生となって,菊池 安について地質学および鉱物学を学んだ」と原田(1954)が書いている.東京大学理学部地質学教室卒業者名簿にはもちろん載っていないが,木下(1933a)にはもう少し詳しい略歴が載っている.1877(明治10)年東京大学予備門に入り,1881(明治14)年予備門を卒業して,東京大学理学部に入学し化学教室に進学する.1883(明治16)年5月に化学実験中負傷し退学した.1884(明治17)年5月に地質学及び鉱物学を自修し傍ら理科大学教授理学博士,菊池 安(1862-1894)に就き同学科を修む」と書いてある.現在あるような聴講生制度は当時なかったと思われるが,実質的に聴講生であったということであろうか.菊池 安は1883(明治16)年に東京大学を卒業したばかりであった.菊池は1894年に急死するが,そのあとに鉱物学教授となったのは神保小虎(1867-1924)であった.
篠本はその後教職に就き,富山,徳島,岩手,徳島,大分,長崎などと全国の学校を転々とする.1894(明治27)年,第五高等学校の講師を嘱託される.英語,地質,鉱物の教師だったので,明治27年に第五高等学校を去った小泉八雲の後任ということも考えられる.第五高等学校教授となるのは1897(明治30)年である.
 
鉱物研究
木下(1933a)によれば,篠本の論文は,1890年の大分からの玉滴石の報告に始まり,1917年の土佐のクローム鐵鑛論文まで122本ほどあるとのことだ.少なからぬ篠本の論文(1900,1904)は,神保とのあいだに執拗なまでの論争があったことをうかがわせる.神保小虎の祖父も奥右筆だったようで,篠本家と神保家の確執は2代前に遡るものであったのかもしれない.
篠本は論文を書くだけでなく,多くの鉱物を採集した.その鉱物についているラベルの研究から,篠本の標本が海外の標本商のところにわたっているという報告もあり,それゆえに国内での評価は冷たかったという話もある.また,大分県鯛生の素封家,田島勝太郎が熊本中学に在学中,夏季休暇の篠本による宿題として,採集した鉱石を提出したところ,篠本の鑑定によって良質の金鉱石であることが証明されたことがあった.田島が帰省して父,儀市に話し,儀市は当時金山を経営していた鹿児島県の事業家と共同で鯛生金山経営に乗り出したといわれている.
著書は,1899年に中川久和・篠本二郎・藤井健次郎・丘淺次郎の共著で『新体博物示教』を東京敬業社より発行したことが知られている.およそ100ページで,木版図52,石版図25が掲載されていて,40銭だった.篠本二郎が鉱物学,藤井健次郎が植物学,丘淺次郎が動物学を担当したと思われる.
 
熊本時代
夏目は1896(明治29)年第五高等学校英語教師となった.篠本が教授となったのは1年遅れである.宮永(2013)は,篠本は鉱物・地学・英語の教師で,「朝顔を洗わず,便所に行っても手を洗わなかった」と書いているが,真偽のほどは不明である.篠本は『五高時代の夏目君』を同じく漱石全集月報に書いているが,篠本本人のことは書いてない.夏目は熊本県で高額納税者であったが,篠本ははるかに給料が低かったと思われる.長い間嘱託であったし,学歴が選科生で終わっていた西田幾太郎(1870-1945)などと似たような待遇だったと考えられる.
                                                                        
桜島大正噴火
篠本が鹿児島にある第七高等学校の講師を嘱託されたのは1905(明治38)年であった.七高で,1914(大正3)年1月12日の桜島噴火に遭遇する.木下(1933b)は鹿児島新聞記者十余名協纂『大正三年櫻島大爆震記』をもとに小文を書いている.すなわち,「第七高等学校造士館講師篠本二郎先生は十日来の地震は火山性のものにして震源地は桜島にあり,近く何等かの現象を呈すべしと観測し,十二日払暁之に関する一文を草し,早朝鹿児島新聞に寄稿したり.右原稿未だ新聞に発表せられる暇なくして・・・」14日には「桜島爆発の順序は極めて規律正しく今後は決して憂うべきことなきを保証す」という意見を発表し,15日には,さらに小爆発を起こすかもしれないが,だんだんと落ち着き,津波をおこすこともないと1文を書き,16日の鹿児島新聞に掲載された.
この経過は柳川(1984)をはじめ多くの著書に引用されている.また,東京大学理学部地球惑星科学教室に保存されていた小藤文庫の引き出しに小藤の手帳とともに,桜島の噴火のスケッチがあり,それは篠本のスケッチと推定されている(岩松,2014).
 
没年
1916(大正5)年,篠本は第七高等学校を辞し,福岡に移り住んだ.鉱物研究は長く続けた.1933(昭和8)年2月に胃がんが発覚し,5月に亡くなった.木下の追悼文には「内に臓する熱烈なる意気と闘争心」ということばが見られる.傍系の地質学者として,篠本は激しい一生を生ききったのであろう.
 
謝辞
鉱物趣味のWEBサイトを運営されている澤田 操氏には,篠本二郎の自筆鉱物標本ラベルや戦前の伝記記事の紹介でお世話になったことを記して感謝申し上げます.
 
文献
原田準平,1954,明治以後の鉱物学界.地学雑誌,63(3),166-175.
岩松 暉,2014,資料に見る桜島噴火.地質学史懇話会会報,43,22-27.
木下龜城,1933a,篠本二郎先生を悼む.我等の礦物,2(7),207-214.
木下龜城,1933b,大正3年の桜島噴火と篠本二郎先生.我等の礦物,2(8),246-247.
宮永 孝,2013,五高の名物教授.社会志林,60(1),130-99.            
著者なし(篠本二郎),1890,雑報 玉滴石.地学雑誌,2(18),294-295.
篠本二郎,1900,フリッチュ氏のライン鑛と神保氏のライン鑛に就て. 地質学雑誌,7,219-220.
篠本二郎,1904,越中國立山新湯産玉滴石の神保氏の説に就きて.地質学雑誌,11,414-416.
篠本二郎,1917,土佐のクローム鐵鑛.鑛業界,7(5),4.
柳川喜郎,1984,『桜島噴火記―住民ハ理論ニ信頼セズ』日本放送出版協会.