矢島道子(日本大学文理学部)
写真 深田淳夫原稿(1945)第1ページ |
はじめに
地質学の歴史を調べていくときに,戦争中の地質学者の動きは重要である.日本地質学会は創立60周年記念誌でかなり詳細に記録しているが,まだ知られていない資料は多い.資料が散逸しないうちに記録されるべきであろう.東京大学の地質学教室の戦時中の歴史を調べているうちに,おもしろい資料を発見したので,公開する.
東京帝国大学地質学教室の疎開
1945年小林貞一教授を筆頭とする東京帝国大学地質学教室第2講座は山形県大石田町に図書や標本とともに疎開した.他の講座はどこに疎開したかはまだ調査していない.1945年3月10日の東京大空襲のときには多くの焼死体を見ながら大学に登校したという当時の学生の証言をえているので,疎開は1945年4月以降の事と思われる.小林の指揮のもと在籍していた学生・職員が荷物の梱包,発送,大石田での研究室づくりなどに奔走した.この困難な間も,東京にいた時のように授業も行い,談話会も開いていたらしい.幸い,疎開自体は一年足らずで終わったが,運んで間もない荷物をまた東京に送りかえして,焼けずに残っていた理学部二号館の教室にもとのように再配置するという労働を余儀なくされた.
東京大学総合研究博物館にある多くの古い標本には,箱を破ったようなラベルがある.おそらく,2度の引っ越しの結果と思われる.
『笹の実』
疎開中の大石田では,同人誌『笹の実』も発行していたらしいことを,当時,学生だった深田淳夫氏(1922-2010)より2007年に伺った.そして,その2号の原稿を,当時助手であった市川健雄氏が保存されていたので,ここに紹介する.
宮澤賢治先生と地質學(深田淳夫)
岩手県花巻の人,宮澤賢治先生こそは二十世紀の日本の生んだ最大の詩人であると申しても宜しいでせう.而も先生が生へ抜きの東北人であり,農村人の辛苦を身を以て躬行した力強き実践者であったことは,今こうして疎開學生として大石田の街に清らかな地方生活を送る身にとって,ひとしお,身近なものを感じてゐる次第です.
更に先生の高弟として農村振興の意欲に燃え,朝に夕に,「精神歌」を唱和し,『アメニモマケズ,カゼニモマケヌ』の朴訥な精神生活に,若き心身を献げて,同じく若干三十八才の幕を閉じられた故松田甚太郎氏は,ほど近き,新庄盆地の産であり,今尚鳥越部落には,『最上共同村塾』が残ってゐるといふから,東北の若き青年諸君が如何に賢治先生の尊き感化をうけてゐるかを想像するに難くないのであります.然しいつかも學校の矢作先生とお話ししたのですが,却って地元の当地等では,松田氏のやうな,はでな,行き過ぎたやり方に対して反対の意見をもってゐる者もあるといふ事を聞いて,“さもありなん”と面白く感じたことです.何はともあれ,賢治先生逝いて已に十三年,在京の有数の作家を編輯者として,はなはなしく全集が刊行され,又東京や花巻では,宮澤賢治の會が組織されるし,『風の又三郎』の映画が世に喧傳されたり,『銀河鉄道の夜』や『ポランの廣場』等の童話がつぎつぎと上演された宮澤賢治文學の一種の流行時代も,いつしか風の如く過ぎ去り,余りにもめまぐるしいその日その日の,あわただしい世相を前にしては,先生の名もいつのまにか忘れさらうとする傾向にあることは,その流行時代の華々しかっただけに,ことさら空虚なさびしい気持にさせられるのです.
決してそんな,流行の対象となるやうな,浅薄な内容のものでなく,所謂“卑劫なる成人共”の充満する今の世にあって,ほんとうに先生の素朴な心に私淑する人の,少しでも多からんことを切望しで止まないものがあります.
詩人としての宮澤賢治,法華経の信者としての先生,花巻農学校の一教師としての先生等に就いては,随分と今迄,いろいろの人によって語り盡されたものであり,今更,私の如き無縁外来の徒の喙を入れる余地を感じないのですが,先生の科学者として,とりわけ地質學に深い造詣をもってをられたことを,今ここにお話してみようと考へてみた次第であります.
今手元に全集は勿論のこと,一切の文献を所有してゐない為に,一々の記憶は誤りの多からんことを,ひそかに懸念するのですが,その点はとくと寛恕あらんことを希望いたします.
私が大學に於て地質學を専門としてえらぶやうになったのも,一つは,先生の影響の絶大であったことを自ら感じてをる次第です.
そして先生が鉛筆を首にブラ下げては,小さなノートを手にして,或いは岩手山に,或は早池峰山その他の北上の山々を,幻想の詩境にさまよい乍ら,思ふ存分に跋渉された姿を,はるかに彷彿として心に畫いたことでした.先生は幼にして既に博物學に興味をもち,珍しい鉱物を採集したり,植物の標本や昆蟲の標本を作ることにも趣味をもってをられた様です.わけても山野を跋渉することは得意中の得意らしく 盛岡中學に在學中にも,土曜日から日曜日にかけて,単身,岩手山に登山することもしばしばであったさうです.
其後盛岡の高等農林農藝化学科を卒業してからも,同校の地質学研究科に於て,関豊太郎博士の指導をうけ,稗貫郡の土性調査を一緒に,各地の地質調査に従事されたことも,想像に難くないのであります.
その頃,盛岡から故郷の父君宛に送った書簡によっても,その間の消息を知ることが出来ます.その中に次のやうにあります.
謹啓・・・・
其の後學校にては大体化學實験の手傳ひを致し居り候・・・略.
次に先月末より求め候書籍漸く仙台の丸善より得申し候.右は左の三冊に御座候.
ハッチ及ラスタル著 岩石學(二)水成岩 四一〇円
ライス著 經濟的地質學 八八〇円
ウェンレイ原著・ヨハンセン英訳 岩石學の基本溶接 五六〇円
右の内ライス著を今夕繙き所々散見仕り候處,實に當地に適切なる岩石鉱物を多数発見仕り,誠に愉快に存じ候.尚左の書籍
I ゼームス・ゲーゲー 構造及野外地質學
II メーリル 非金属鉱物及其應用
III イッデングス 造岩鉱物
同 火成岩(上下)
ハーカー 火成岩 中の三冊
を得度と折角考慮致し候處・・・略
とあるのをみても,地質學の方面に於ても常識以上に,可成突っ込んだ研究をせられたことが想像されるのであります.
又先生はニコル付の鉱物顯微鏡の下に於て,岩石の薄片が,どのやうな鮮かな美しい色を示すかを感歎してをられ,或いは上野の圖書館に,或いは東北帝大の地質學教室に,非常な熱意を以て,地質學を勉強せられたことも察せられます.
又花巻農學校に在學中に,イリドスミンやオウミュウムのやうな稀な鉱物粒を採集せられたり,花巻町小舟渡北上河岸の第三紀層泥岩から 偶蹄類の足跡や胡桃の化石を集められたこともある由であります.
然し又,三十八才の短い生涯の晩年に近く「百姓に石灰肥料を安く供給したい」との念願から,大船渡線松川駅前の東北砕石工場の技手として古生代の石灰岩の採掘に従事されたこともあるさうです.
かくの如く賢治さんの地質學の勉強が,すべて,土壌學もしくは広く農學の爲の,基礎としての地質學であったことは,必然的な成行であると申さねばなりません.
次に其の數多くの作品を讀んでみても,いろいろと地質學上の術語の出て来ることは.枚挙にいとまが無い位です.
先生の詩稿『春と修羅』の中の,いちいちについてのべることは除いても,そのあまたの童話の中にも,我々地質を學ぶ者にとって,とりわけ興味深いものが多いのであります.
就中第一に思い出されるのは作品『楢の木大學士』であります.清廉潔白の貧乏大學士,楢の木君は,インチキ商人(それが飯田橋の岩本鉱物標本店を風刺するものかどうかは論外として)にそそのかされて,東北の山奥にオパール(蛋白石)を採集に行く話です.手にはデッカイハンマーをもち,大きなリュックサックを背負って,上野の驛の雑踏にもまれる光景等は,思ひだすだけでもほほえましくなるほどですし,三陸のどこかの海岸の洞穴で野宿して夢を見,その夢物語りの中に,コルツ(石英)さんと,バイオタさん(黒雲母)とプラヂオさん(長石)との三人が喧嘩を始める有様を,花崗岩の風化にたとへた奇想天外な着想等は全く感心させられる處です.
又『気のいい火山彈』の話の中には私達の東京帝國大學地質學教室の名前が,そのまま出て来るのも愉快であるし,『グスコープドリの傳記』の中に,火山の爆発を人工的に起こす話も面白いし,
『山彦』の中では,地質の學生がたたくカーンカーンといふハンマーの音が,或る山間の鉱山の住宅に住む若い夫婦の間の出来事に関係してくる叙述もいかにも,ありさうな私達のよーく經験する事柄のやうに思はれるのです.その他,直接地質學とは関係のないまでも,山の話や草木の話等々,北上の山々をこの足でつぶさに歩きまわった私には,とりわけ手にとるやうな親しみを感ずるのでした.「風の又三郎」「注文の多い料理店」「どくもみのすきな警察署長さん」「ざしき童子の話」等すべてその尤なるものであります.
かくの如く先生の作品を通覧してみるとき,いかにも無理やこじつけのない素朴な自然さが何よりも貴重なものであり,一つ一つの譬へが実にピッタリとしてゐるのに,驚かざるをえません.
山から生まれた詩であり,子供のやうな,明るい,純な心の産物と申して宜しいでせう.
都会の人からみれば,いらだたしい迄に 気の利かない眞正直で実直な,東北人獨特の性格から,自然に生まれ出たものであるという感じが,しみじみするのです.
その詩篇の中には,全く個人の主觀的な叙情である爲に,難解にして不可解な部分も,これなしとしないのですが,その童話の中には何度味ってみても,興味の盡きない作品のあまたあることを紹介して廣く同學諸兄の閲讀をおすすめしたいと思ひます.
大きく口をあいて童謡を唄ふやうな,子供の気持になりきって,味っていただきたいものです.最後に有名な作品を一つ紹介してこの駄文をおわりませう.
雨ニモマケズ (略) 以上 20[昭和20].7.17
『笹の実』の反応
原稿が発見されてコピーを深田氏に送ったところ「案外反響が少なく,特に東北大学の先生方が無関心なのが不思議でした.唯一,弘前大学の宮城一男さんという方が評価してくださった記憶があります.矢部長克先生や早坂一郎先生もあまり関心がありませんでした.案外地質学者の独善性とひとりよがりを反映しているものかもしれません」という2007年12月17日付のはがきをいただいた.
宮城一男氏は『農民の地学者・宮沢賢治』(築地書館,1975年),『宮沢賢治-地学と文学のはざま』(玉川選書,1977年)などを公刊されているが,深田淳夫氏のことについては何も記されていない.
追記
特定の企業や個人に対して,一部誤解を与えるような表現が含まれているが,原文を尊重してそのまま掲載させていただいた.(2017.5.15追記)