〜2018年日本地質学会創立125周年を記念して〜

 

トリビア学史 4   不思議に満ちた白野夏雲(1827-1899)


矢島道子(日本大学文理学部)
 

写真:神官,白野夏雲(白野仁,1984)より

明治の初め,地質学を志した日本人の第1 世代は,ほとんどが欧米から学んだ.榎本武揚のように明治以前に欧米に行って学んだ者や,明治になってからお雇い外国人のコワニエ,ライマン,ナウマンなどに習った者などである.地質学そのものが日本で生まれたのではなく,欧米で生まれた学問だから当たり前のことかもしれない.ところが,今回とりあげる白野夏雲(文政10年‐明治32年)は欧米人に習った形跡も,大学で教育を受けた経験もない.にもかかわらず,白野の地質学的業績はかなり秀でている.すでに佐藤(1983),白野仁(1984),中村(1986)も,白野の不思議さを指摘しているが,この稿で確認したい.また,白野の業績がすべて明らかにはなっているわけではないから,もっと素晴らしい業績も発見されるかもしれない.特に北海道や鹿児島から白野の業績は発見される可能性が高い.
 
白野夏雲(しらの かうん)の経歴の不思議
白野の地質学的業績の再検討の前に,彼の人生自身が,名前,住所,職業等で不思議に満ちているので,少し検討する.白野は幕末に幕府直轄の甲州で生まれ,江戸に出てきたのち,41歳で明治維新を経験する.降伏して,江戸から静岡に回される.明治3 年(44歳)十勝国が静岡藩の領地だったため,静岡から北海道に回され,そののち明治5 年に開拓使に採用される.明治8 年には内務省に採用され東京の地理寮に勤務する.ところが明治12年鹿児島県に出向となる.明治17年11月に農務省に帰ってきて,地質調査所勤務になる.それもつかの間,明治19年7 月北海道庁勤務となる.北海道庁勤務のまま,明治23年,62歳で札幌神社(現在の北海道神宮)の宮司となる.明治25年北海道庁を依願免職し,亡くなるまで札幌神社宮司であった.
 
名前
本名は今泉耕作.嘉永4年,23歳で江戸に出るにあたって,出生地白野村に基づいて白野耕作と改名.明治3 年,北海道に行くにあたって,白野夏雲ともう1 度改名.この時代,木戸孝允などに見られるように改名はよく行われたようだ.
 
住所
生まれたのは甲斐国白野村(現在の山梨県大月市笹子町).父は左官で石和代官の手代だったため,幼くして石和に転居.甲府徽典館(官学)で学ぶうちに江戸から派遣された学頭,岩瀬忠震(いわせただなり)の勧めに従い,江戸に出る.江戸では,幕府・歩兵の輜重隊の頭と軍事顧問を命ぜられ小川町に駐屯していた.元治元年39歳の時に天狗党の乱が起き,日光の警備を命じられ任地に赴く.慶應4年に彰義隊が上野に立てこもった時は浅草の蔵を守っていたが,官軍が江戸に入り徳川の残党を追求するに至って,隊を率いて新宿口から甲州へと逃げることができた.その後,前橋まで逃れ,降伏.江戸から静岡に回される.ここまでは幕末に幕府直轄地に生まれた人間の普通の道である.それでも,山梨の大月から,石和,江戸の後,日光,前橋と転々とした.
本格的に明治時代が始まると,開拓使,内務省,鹿児島県,農務省,北海道庁と任命者が変わって明治政府のために働く.短い東京勤務を挟んで,勤務地は北海道と鹿児島の間を行き来する.北海道内もよく歩いているし,東京での地理寮勤務の間にも地方の調査によく赴いている.鹿児島では琉球列島もよく調査している.地質学の研究者としてみれば,たいへんよく歩いているといえる.
 
岩瀬忠震と永井玄蕃
白野の学んだ甲府徽典館学頭の岩瀬忠震(文政元(1818)−文久元(1861)) は, 江戸末の優秀な幕臣,外交官であった.石和から江戸に戻り,学頭としての功績が認められ,昌平坂学問所の教授となる.講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦,品川の砲台の築造に尽力した.その後も外国奉行にまで出世し,列強との折衝に尽力し,安政2 年(1855年)に日露和親条約締結に臨み,安政5 年(1858年)には日米修好通商条約に井上清直と共に署名した.水野忠徳,小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された.
ところが,13代将軍の将軍継嗣問題で徳川慶喜を支持する一橋派に属したので,大老となった井伊直弼による安政の大獄で左遷された.安政6 年(1859年)には蟄居を命じられ,文久元年(1861年),44歳で失意のうちに病死した.
岩瀬の学問的業績,あるいは地質学的知について詳しく調べてないが,外国語にも秀でていたことは確かである.松岡(1981)に岩瀬から橋本佐内あての手紙の写真を見ることができるが,宛名はSanai様,差出人はHigoとなっており,横文字を日常使用していたことがわかる.白野は岩瀬に多くを学んだはずだ.明治16年(1883年)白野は岩瀬を偲んで東向島の白鬚神社に「岩瀬鴎所君之墓碑」を建立している.
白野仁(1984)は永井玄蕃(1816−1891)の影響も多大であると述べている.永井もまた甲府徽典館学頭から始まって,岩瀬と共に生き,安政の大獄を生き延びた後,榎本武揚とともに,函館戦争を戦った.その後,明治5 年より開拓使勤務(東京)となり,白野の開拓使勤務(札幌)と同時期であった.
 
職業等
開拓使勤務は,上記のように,永井玄蕃の影響があると思われる.その後の内務省,鹿児島県,農務省,北海道庁,そして札幌神宮の動きの原因は不明である.
 
地質学的研究
地理寮と地質調査所に勤務したのは明治8 年から12年と17年から19年の2 度,全部で6 年に満たないが,その他の職業についていても,随所で地質学的研究を行っている.
まず北海道では明治5 年5 月の墺国博覧会ニ付北海道物産取り調べ方を申し付けられる.この時彼は,北海道で,明治6 年のウィーン万国博覧会用の標本を集めた.岩石・鉱物の相当な知識があったと思われる.北海道には1 年半いて物産地質の調査にあたり,この時アイヌ語の研究にも着手したと思われる.
地理寮時代は,山梨県,静岡県,浜松県,愛知県,足柄県,千葉県,高知県,新潟県などで土石調査を行った.山梨,静岡などは白野にとってのゆかりの深い場所である.明治10年1 月には内務省山林課に転じ地理局に勤め,明治11年には内国勧業博覧会の委員と審査官を命ぜられている.やはり,岩石・鉱物に知識があり,「当時の地質調査所の展示室は夏雲の集めた標本がほとんどだった」(佐藤,1983)という記載もある.
明治15年8 月刊行の「学芸志林」誌に発表した『穴居考』は地質学の論文である.タイトルから見ると,まるで古代の人間のすみかについて論じたもののようだが,内容は噴火作用,海水作用,露滴作用など,地球の作用について論じたものである.学芸志林は明治10年に創刊された,東京大学の紀要のようなもので,著者は多くが東京大学関係者だが,白野のように非東京大学人もいる.白野は明治13年,14年に『古代地名考』(明治13年の所属は静岡だが,明治14年には所属が記されていない)も書いている.明治16年にはやはり非東京大学人の坂市太郎が『地層褶起の説』を地学会会員の肩書で投稿している.
明治19年「地質要報」に『硯材誌』を旧局員[元地質調査所職員の意味]として投稿している.グレースレート,アロムスレートなどのカタカナことばが原綴を付して記されている.岩石に関する知識は豊富で正確である.「地質要報」の『硯材誌』の前に掲載されている論文はドクトルナウマンの粘板岩の報文であるが,それを参照せよとも書いてある.
白野が集めた岩石鉱物の類を息子(次男)の己巳郎がまとめて「金石小解」として出版している.明治12年版,明治15年版および明治17年版(夏雲が改訂)がある.白野が収集していた2 〜3 千余の標本のうち,息子の己巳郎が鑑定し,典型的と思われるものを選んで,その説明をダナ氏のマニュアル・オブ・ミネラロジーから和訳してつけたとされている.
中村(1986)は明治15年刊行の『以太也蚶録』を日本の海底地質論の嚆矢として高く評価している.白野の研究業績は,海洋学,水産学等にもわたっていて,膨大である.あくまでも現場を歩いて,物にふれて,研究していたといえよう.白野について,丁寧な調査に基づいた的確な評価がなされることを望む.
 
文 献
松岡英夫,1981,『岩瀬忠震―日本を開国させた外交家』中公新書.
中村光一,1986,日本における海底地質研究の黎明2 - 1‐白野夏雲『以太也蚶録』における海底地質論考.地質ニュース,no. 383,45−53.
佐藤博之,1983,先人を偲ぶ(1).地質ニュース,no. 346,52−63.
佐藤博之,1985,博覧会と地質調査所-百年史の一こま(2).地質ニュース, no. 372,17-28.
白野 仁,1984,『白野夏雲』北海道出版企画センター.
著者不詳,1896, 雑報− 白野夏雲翁, 地学雑,8 巻,96号,609.
 
写真 神官, 白野夏雲( 白野 仁,1984)より.