〜2018年日本地質学会創立125周年を記念して〜

 

トリビア学史 3   富士谷孝雄(? – 明治26(1893))はどこへ消えたか


矢島道子(日本大学文理学部)・浜崎健児(Ultra Trex(株))
*補遺を掲載しました(2017.3.8)
 
写真:右 ナウマン,左 富士谷孝雄.
撮影年不明.(フォッサマグナミュージアム所蔵)

富士谷孝雄
富士谷孝雄は生年がいまだ不明だが,東京大学理学部地質学科を明治14(1881)年に卒業した,3回目の卒業生である.初代教授ナウマンと一緒に移っている写真(写真1)は有名である.ナウマンが日本人と一緒に移っている写真は大変珍しい.おそらく富士谷だけであろう.ところが,富士谷はその後の地質学史からほとんど消えている.どうしたのだろうかと不思議に思っていた.
 
東京大学時代
調べてみると,富士谷は東京大学在学中から『学芸志林』などに多くの論文を書いている.また,『東京帝国大学五十年史』(1932年)によれば,明治15(1882)年8月1日から18(1885)年5月まで東京大学助教授である.
『学芸志林』は今の東京大学紀要のようなもので,明治10(1877)年8月から明治18(1885)年11月まで刊行された.富士谷の投稿した論文は下記8本である.
・明治12(1879)年3月 「西俗謬信之說――米國學藝新誌中ヨリ」地質学科2年 富士谷孝雄訳
・明治15(1882)年11月「安房地質志」理学士 富士谷孝雄述
・明治16(1883)年6月「本邦石學一斑」東京大学助教授 富士谷孝雄述
・明治16(1883)年9月「中村穴居考」東京大学助教授 富士谷孝雄述
・明治16(1883)年12月「会名ノ縁由」地学会員 理学士 富士谷孝雄識
・明治17(1884)年2月「飛彈國地貿槪報附圖」東京大学助教授 理学士 富士谷孝雄述​
・明治17(1884)年3月「河流新說 」東京大学助教授 富士谷孝雄述
・明治18(1885)年4月「天草郡地質稽査報告」東京大学助教授 理学士 富士谷孝雄,准助教授加藤敬介と供述
富士谷の肩書が理学士から助教授に変化していること,地学会員を使用していることに注目されたい.「安房地質志」「飛彈國地貿槪報附圖」「天草郡地質稽査報告」は秀逸である.「中村穴居考」は人類学の論文である.「会名の縁由」は地学会の名前について書かれたもので,トリビア1に書いた『本邦化石産地目録』は富士谷の筆かもしれない.
 
東京大学時代に書いた他の雑誌論文と著書
他の雑誌の投稿論文としては,少なくとも,東洋学芸雑誌1本,東京地学協会報告1本,理学協会雑誌7本がわかっている.理学協会雑誌は1883−1889(1−68巻)年に,理学協会が発行した雑誌である.発行人は 丸善の島村利助となっている.天草の地質に関する研究に精力的に取り組んでいたようで,
・明治17(1884)年3月に東洋学芸雜誌 3(42)に「天草地質誌」
・明治16(1883)年ころ理学協会雑誌 2(12) と2(14) に「天草地質誌」
が掲載されている.「中村穴居考」は明治17(1884)年5月に理学協会雑誌に再度掲載されている.
明治16(1883)年11月『地学要略』巻之1,巻之2が原田豊吉閲 富士谷孝雄述で発行された.和田維四郎が序文を書いており,「余が学友富士谷君」と書き出している.編述兼出版人は東京府士族 富士谷孝雄,住所は東京麹町区下六番町三十番地 渡邊悠(欣に心かもしれない)方寓居となっている.また, 同じ本と思われる本の広告が最終ページにある.それには『中学適要 地学要略 1名地質学初歩』 全2冊 農商務省地質調査所長和田維四郎先生序,理学博士原田豊吉先生校閲 理学博士富士谷孝雄先生編述 と書いてある.
 
外務省時代
その後はどうしたのだろうか.まず,横山又次郎著『自然の面影』(大正15(1926)年)の437ページで富士谷の名前を見つけた.「今から殆ど50年の昔,余がまだ東大の地質学科の学生であった頃,同じく学生であった富士谷孝雄君(今は故人)が,房州には畑の中に大きな岩珊瑚が転がっているそうだが,ずいぶん珍しいことだと話していたのを聞いて,行って一見したいと思った.」富士谷は早世であったのだとわかった.横山は富士谷の1学年下である.横山が1860年生まれなので,富士谷の生年もそのころであろう.その後,文献は忘却したが,外務省に勤務していたことを知った.それからは簡単で,国立国会図書館デジタルコレクションで富士谷を検索すれば,正確な情報を入手できる.
外務省の翻訳官になってからは,官報を追うとよい.
・明治18(1885)年5月30日 外務省翻訳局兼交信局勤務 月俸70円(官報572号)
・明治20(1887)年6月6日 依願免(官報1179号)
・明治21(1888)年8月6日外務省翻訳官試補 年俸900円(官報1531号)
・明治22(1889)年12月24日外務省翻訳官(奏任官四等)中級俸(官報1948号)
・明治24(1891)年3月23日外務省翻訳官(奏任官四等)中級俸(官報2315号)
途中の退職・復職は渡欧した結果とみられる.高田善治郎(滋賀県出身)・吉川真澄と明治20(1887)年6月28日より渡欧した.7月4日に香港,7月11日にサイゴン,7月13日にシンガポール,7月19日にコロンボ,7月29日にアデン,8月8日にマルセイユと経て,8月9日にイギリスに到達した(高田,1889).そののち,明治22(1889)年4月に『綿糸紡績者必読 一名・印度綿及綿糸紡績』 内田老鶴圃を出版した.富士谷の住所はこのとき,牛込区新小川町三丁目十七番地であった.
 
地質学一般書の刊行
外務省勤務時代も富士谷の地質学一般書の刊行は続いている.
・明治20(1887)年『芸氏地文学 中学校 師範学校教科用書』,アーキバルト・ゲーキー著,富士谷孝雄訳補,文部省編輯局
・明治21−23(1888-1890)年『如氏地理教科書 中等教育』,ケイス・ジョンストン著,富士谷孝雄述,内田老鶴圃
・明治24(1891)年『日本地理教科書』上巻,下巻  富士谷孝雄 著,敬業社・成美堂
・明治25(1892)年『中等鉱物学教科書』富士谷孝雄 著,金港堂
・明治26(1893)年4月『普通地文学 (巻1)』理学士富士谷孝雄 述,敬業社・成美堂
・明治26(1893)年8月『地文学講義』  理学士富士谷孝雄 述,成美堂
「地文学講義」には「明治25年明治議会の夏期講修会に於いて講述せし講義速記録に聊か修正を加え,教員諸君学生諸子の参考に供せんがために上梓したるものなり」という例言がついており,明治26(1893)年7月の日付であった.
また,『少年園』という明治21−18(1888−1895)年に存在した雑誌に
・明治23(1890)年1月3(30)氷原及氷山の說
・明治23(1890)年9月4(46)ジオン,ビリングス氏の哲學
を掲載した.
明治24(1891)年には富士谷の住所は東京市牛込区東五軒町三十五番地であった.しかし,この一般書の多産の中,突然,明治26(1893)年12月11日に富士谷は死亡した(東京地質学会,1894).死亡の詳細は不明である.
 
なぜ外務省に行ったのか
富士谷の外務省への転出が明治18年5月で,ナウマンの帰国,原田豊吉の東大教授の就任と時期をほぼ同じくしているので,東京大学での地位争いの敗北の説を提唱する研究者もいる.しかし著者らは,後に日本の外務官僚の大御所となる小村寿太郎(1855—1911)の強い勧誘に富士谷が従ったと考える.小村寿太郎が翻訳のスタッフとして富士谷を見込んだと著者らは考える.「明治21年10月,鳩山は今の条約局に当る当時新設の取調局の長に転じ,侯[小村]はその後を襲いて翻訳局長となった.(中略) 新任翻訳局長たる侯の部下局員は赤羽(四郎)参事官,久松(定弘)公使館書記官,富士谷(孝雄),関(澄蔵)の両翻訳官,中略,の人々が居った」(信夫,1942,p 40–41).小村はどうやって富士谷を知ったか.
富士谷孝雄の曽祖父 富士谷成章(なりあきら;1738–1779は儒学者で,儒学者 皆川淇園(きえん;1735–1807)の弟であり,1756年に富士谷家の養子になった.富士谷家は九州柳川藩の京都留守居役であった.
皆川淇園と明治・大正時代の重要な教育者杉浦重剛(1855–1924)は意外にも浅からぬ因縁がある.杉浦は 近江・膳所藩出身であるが,藩侯の本多康禎は皆川淇園父子を招聘し,淇園の計画により藩校の尊義堂を創立した.杉浦の父親は藩校の尊義堂の教授であった(大町ほか,1924).
そして,杉浦と小村は貢進生の同期で,文部省留学生として海外に行き,また個人的に親友でもあった.明治17(1884)年井上馨外務卿の人材さがしで 当時東京大学予備門長の杉浦が小村寿太郎を推薦した(大町ほか,1924)と考えられる.
どうどうまわりをしたが,杉浦と富士谷は膳所藩と皆川の縁で互いをよく知っていたと推定される.そして,この前後に富士谷が外務省勤務を始めていることから,杉浦から小村に推挙の働きかけがあったと思われる.
 
文 献
大町桂月・猪狩史山『杉浦重剛先生』政教社,大正13(1924)年
信夫淳平『小村寿太郎』新潮社,昭和17(1942)年
高田善治郎 『出洋日記』川勝鴻宝堂, 明治24(1889)年
東京地質学会,1893,「訃音」地質学雑誌,第1巻4号p.205
 

補遺 トリビア学史3 富士谷孝雄補遺  2017.3.8追加掲載

日本地質学会News, No. 11(2016年11月号)に「トリビア学史3富士谷孝雄(?−明治26(1893))はどこへ消えたか」を掲載したが,間違いが見つかったので修正したい.また,新しい資料も見つかったので,ここで付け加えさせていただく.
 
間違い
膳所藩の藩校遵義堂を誤って尊義堂と記した.滋賀県立膳所高等学校は遵義堂の跡地に建っている.膳所高校出身の地質学者は多い.大変な失礼をした.膳所高校出身の宍戸 章氏より指摘を受けた.心より感謝する.
 
地質調査所勤務
富士谷孝雄は1881(明治14)年に東京大学理学部地質学科を卒業後すぐに内務省地質課に入ってナウマンの「東北部」調査に協力したが,その翌年には東大地質の助教授に出向している(山田,2008).1886(明治19)年に完成した「大日本帝国予察東北部地質図」にはナウマン,E.・富士谷孝雄・山田 皓・坂 市太郎・西山正吾の名前が記されている.
 
東京山林学校で教える
富士谷は1882-1884(明治15-17)年に,東京山林学校の嘱託をしていた(根岸ほか,2007).1882(明治15)年創立の東京山林学校は,第1学年に地質学と鉱物学の講義を設置していたからだ.富士谷の後は,和田維四郎(1856-1920)が助教として,1885(明治18)年に授業した.1886(明治19)年に東京農林学校になってからは,西松二郎(1855-1909)が1886-1890(明治19-23)年に,教授として地質学・鉱物学を授業した.1890(明治23)年に帝国大学農科大学に移行してからは,西松次郎教授が1892(明治25年)まで続行し,1893(明治26)年から1917(大正6)年までは脇水鐵五郎(1867-1942)が講師および助教授として授業した(根岸ほか,2007).
 
富士谷はなぜイギリスに行ったか
下記二つの資料を入手した.
1889(明治22)年3月15日大阪朝日新聞朝刊に大津通信(3月14日発)より
当国の豪商が資金百万円を以て近江製絨所を創立せんと計画中のよしは先にも報ぜしが,何故か発起人中に取越し苦労をなす者ありて今日まで着手の運びに至らざりしが殊に客年実業視察のため欧州に赴きたる富士谷孝雄氏ほか2名にはいずれも一昨日帰国し昨日は発起人を集め種々相談ありしかば発起人は大いに感ずる所ありしものか至急創業に着手することに決したりとまたいよいよ設立するに至らば富士谷氏を社長とする由.
明治22(1889)年8月21日東京朝日新聞朝刊より
近江銀行の計画
滋賀県の融資者は昨年日本製絨会社という社を設立するつもりにて某知事の周旋により外務翻訳官富士谷孝雄氏が辞職の上わざわざ英国に航するなど興社設計のためそれこれ三万数千円の入費を支払いしにもかかわらず,そのことついに成らずしてむなしく解社し,更に一変して金巾(かなきん)製織会社を起こすこととなり.すでに七分通り協議の整いし処へ過日松方大蔵大臣の大津に来たれるを幸い,大臣の意見を聴きしに其れは以ての外の事にて,十分技術に詳しからざれば能わざるのみならず・・・・・との一言にて急に是も断念することとなり.全くその代りにてもあるまじきけれど,右両者を発起せし・・・・の諸氏等が今度ある筋の勧奨により近江銀行と称する資本金百五十万円の私立銀行を起こし銀行一般の営業を為すこととし・・・去る18日には大津で発起人総会を開きし由なるが,同署の4国立銀行,1私立銀行,もしこの挙の成り立たんには,此れがため,直接に莫大の影響を被るべしとて非常に心配なし居るよし.
近江製絨所,日本製絨会社から金巾製織会社に,そして近江銀行と計画がどんどん変わっていき,近江銀行もうまくいくか心配であると結んでいる.この2つの記事から,富士谷の奇妙な行動(外務省を辞職し,英国に赴いた)の理由がわかる.富士谷はかなり運命を翻弄されたのであろう.また,富士谷と滋賀県の結び付きもかなり強かったといえよう.
 
文 献
ナウマン,E.・富士谷孝雄・山田 皓・坂 市太郎・西山正吾,1886,大日本帝国予察東北部地質図,農商務省地質局
根岸賢一郎ほか,2007,千葉演習林沿革史資料(6):松野先生記念碑と林学教育事始めの人々,演習林,46号,57-121.
山田直利,2008,ナウマンの「予察東北部地質図」−予察地質図シリーズの紹介その1−,地質ニュース,652号,31-40._