〜2018年日本地質学会創立125周年を記念して〜

 

トリビア学史 1 地学会編集『本邦化石産地目録』(1884)

 
正会員 矢島道子(日本大学文理学部)

▶▶本邦化石産地目録(PDF)5.3MB
 

図1 『本邦化石産地目録』表紙

はじめに
 2018年に日本地質学会は創立125周年を迎える.これまでに50周年,60周年,100周年に記念誌を出版してきた.125周年には各分野の100周年から125周年のレビューを地質学雑誌に特集号として掲載予定である.この動きとは別に,これまでの記念誌に掲載されてこなかった学史的な資料がときどき発見されることがある.また,科学史全体の趨勢として,事実解釈が変更されてきているものもある.125周年が終われば,記念誌の編纂は150周年まで試みられないだろう.最近発見されたことがらは風化して消失してしまう可能性も高い.それで,今号から数回にわたって,「トリビア学史」として,小さいけれど,地質学の歴史で重要になるかもしれないことがらをまとめていきたい.第1回は1884年発行の『本邦化石産地目録』についてお送りする.
 
目録の発見

 2015年秋,東京大学理学部地球惑星科学図書室保存書庫にて,『本邦化石産地目録』を発見した.この目録について,管見にして聞いたことがない.『本邦化石産地目録』は,明治17年当時の地質学・古生物学の様子がよくわかるので,その概要を報告する.明治17年の化石産地は現在でも化石を産しているところも多いが,まったく産しない所もある.各地の博物館で所有している化石の古い産地の検索の一助になればよい.
 
目録の概要・構成
大きさはB6判,34ページ,1ページは25字12行.正誤表もついている.表紙は図1を参照.小さな薄い冊子なので,目次はついてないが,構成は
表紙,表紙裏:白
凡例          ページ1
本邦化石産地目録    ページ3
第1 古生紀煤炭期之部 ページ3
第2 中生紀三聯期之部 ページ7
第3 中生紀侏羅期之部 ページ8
第4 中生紀白亜期之部 ページ11
第5 第三紀之部    ページ12
第6 時期未定之部   ページ29
第7 北海道之部    ページ32
となっている.
 
目録の目的
凡例では,この小冊子の目的が4項目記されている.概括すると,
1 本会員が旅行をして,化石産地を探す便を図るために,編集した.
2 地質調査所,東京大学および博物館に所蔵されている化石標本のうち,最も確実なるものについて編集したので,本書は完全な目録というわけではない.この他にも化石産地が諸書に散見されるが,誤謬のないことをめざしたので,本書にはとりあげなかった.
3 化石の産地を主として地質時代でわけた.産出時代が明瞭でないものが少なくないので,別に時期未定の部に編入した.北海道はその地質の調査がまだ極めて不充分なので,産出化石もまだ精細の識別を経てないものが十中八九である.それで,別に北海道の部分をつくった.
4 本書の時期未定の部は漸次その時期を解明されるだろうし,また,新たに化石が発見されるだろうから,ときどき増補改訂して,数年の後,完成させたい.
 
地学会とは
明治10年(1877)に東京大学が創立してそのうちに地質学採鉱学科が設けられた.明治11年3月27日生物・地質の学生によって,東京大学で開かれた博物友の会は自然史諸学会の発芽であった.生物の会は東京植物会や東京動物会として次々と分化した.地質専門のものは,博物友の会を保存して,地学研究に従事していたが,明治16年5月10日に地学会と改名した(小藤,1885).
地学会の欧文名は The Geo1ogical Society of Japanであり,明治18年地学会誌(Bulletin)甲部の発行を始めた.明治22年には同誌を地学雑誌と改名し,4集(vol.4)までを出版した.明治25年地学会と地学協会とが合体して,地学協会が地学雑誌の発行を継承した.地学雑誌5集からが地学協会の出版物となり,9集から The Journal of Geography と呼ばれるようになった.明治26年には東京地質学会が創立され,地質学雑誌が発刊された(小林,1980).
地学会誌第1集第1巻によれば,地学会の例会は地質調査所で行い,明治18年地学会会長は小藤文次郎,会員は,坂市太郎,富士谷孝雄,原田慎次,原田豊吉,菊池安,巨智部忠承,小藤文次郎,西山正吾,鈴木敏,和田維四郎,山田皓,山下伝吉,横山又次郎であり,その他に副会員として,本多(奈佐)忠行,神保小虎,三浦宗次郎,大塚専一,多田綱宏が記されている(小藤,1885).
明治12年から20年の東京大学理学部地質学教室の卒業生は,明治12年小藤文次郎,明治13年巨智部忠承,西松二郎,山下伝吉,明治14年富士谷孝雄,明治15年中島謙造,山田皓,横山又次郎,明治16年菊池安,鈴木敏,明治17年三浦宗次郎,明治18年多田綱宏,奈佐忠行,明治20年大塚専一,神保小虎である(東京大学理学部地質学・鉱物学教室卒業者合同名簿作成世話人会,1988).明治17年時点で,ドツ人教師のゴッチェやブラウンスはドイツへ帰国したが,ナウマンはまだ地質調査所に,ネットーは工部大学校にいた.アメリカ人のマンローやライマンはいないが,イギリス人のミルンはやはり工部大学校にいた.
 
目録で扱っている時代について
目録では,古生紀煤炭期,中生紀三聯期,中生紀侏羅期,中生紀白亜期,第三紀となっている.それぞれ古生代石炭紀,中生代三畳紀,ジュラ紀,白亜紀のことである.第三紀が古生代や中生代と同じランクに取り扱われていることは注意を要する.参考までに,小藤(1884)の『金石学一名鉱物学』では,始生代・古生代・中生代・新生代は原始元・中古元・近古元と表わされ,石炭紀・三畳紀・ジュラ紀・白亜紀は煤炭劫・新紅砂石劫・卵石劫・白亜劫と表わされている.その後,小藤は1886年の『鉱物学初歩下巻』では,明治14(1881)年,イタリアのボローニアで開催された第2回万国地質学会で議定された(報告書は1882年)学術語を使用するとして,Eraの著わし方はそのままに,Period-Epochを紀‐期‐代−世と呼ぶとし,石炭紀・二畳紀・三畳紀・卵石紀・白亜紀を使用している.
本冊子と小藤の著書を比較してみると,本書の著者が小藤ではないことは明瞭である.本書では,紀‐期の関係(紀は期の上位ランク)は理解されているが,どのレベルに紀を使うのかは周知されていないようである.なお,1881年の万国地質学会で,ようやく時代名等を世界的に統一しようという動きが出てきた(Vai, 2004)と報告されているので,日本の小冊子での混乱は,世界的な混乱に沿ったものであることがわかる.
 
産地と化石の種類
本冊子では,紀煤炭期の化石は52地点が記載され,産出化石は,石蓮[ウミユリ],フズリナ虫,貝石,珊瑚,多孔虫[有孔虫のことか]などである.
中生紀三聯期は5地点が記載され,貝石のみ報告されている.
中生紀侏羅期は31地点が記載され,産出化石は 芒刺虫[ウニ],珊瑚,貝石,木葉石,アンモニテス,介石(トリゴニヤ)などがあげられている.
中生紀白亜期は10地点が記載され,貝石,菖蒲石[コダイアマモ]の化石の産出が記載されている.
第三紀は210地点の記載があり,介石,木葉石,蟹石,貝石,木化石,多孔虫,珊瑚(灰石柘撥),石牙,芒刺虫,魚骨石,魚骨,魚石,方言百足石[ウミユリ],セルプラ虫[カンザシゴカイ],魚紋石の化石名が並んでいる.
時期未定としては28地点の記載があり,ラヂオラリヤ虫,17地点,イチオラリヤ虫[不明],1地点,多孔虫,2地点,貝石,6地点,海藻,1地点,木葉石,1地点,オストラコーダ虫,1地点,木化石,1地点が記載されている.
北海道からは24地点の報告があり,近代か?として木葉石,第三紀として介化石,介石,インフゾリヤ[微生物]土,木化石,白亜期か?として 大カボチャ石[アンモナイト],カボチャ石[アンモナイト],介化石,貝石,時代不詳として小動物,介化石,木葉石,木化石,介石が記されている.
 
化石について
化石名として,現在使用されていないものもいくつかある.
石蓮は平凡社刊『大辞典』(昭和10年刊,昭和28年縮刷刊)にしたがって,ウミユリとした.いくつか他の大きな漢和辞典にも出ている.百足石は雲根志に図が出ており,ウミユリと解釈されているが,この目録では産出層準は第三紀であるので,「方言百足石」と記載されている.
多孔虫は有孔虫と解釈した.
芒刺虫は,『動物書』(安本,1885)にしたがい,はウニとした.
 菖蒲石は徳橋・両角(1983)にしたがい,コダイアマモとした.徳橋・両角(1983)では,ショウブイシ,アヤメイシ,オモトイシなどと呼ばれてきたこと,東海道名所図会(寛政9年)巻之二 山田石亭[木内石亭のこと]の項に,「讃州産燕子花石」と説明のついたアヤメ石のスケッチがあること,元木蘆州遺稿燈火録(文化9年)巻之一には「板野郡泉谷菖蒲紋石」と題する記述とスケッチが載っていることが記されている.本目録では阿波国板野郡奥田山村,泉谷村泉澤,板東村が,それに相当すると思われる.
石牙,魚紋石,魚牙石は具体的には不明であるが,形を表したものと理解している.
セルプラ虫はSerpula[カンザシゴカイ] とした.
大カボチャ石とカボチャ石はアンモナイトのこととした.
インフゾリヤ土は微化石を含んだ土と解釈したが不明.イチオラリア虫も不明.
オストラコーダ虫はおそらく日本での最初の記載であろう.
 
岩石名について
本目録には岩石名はあまり出ていない.第六「時期未定之部」のラジヂオラリヤなどの化石には産出母体の記載がついている.
舎爾や柘撥は1871年に中国で発行された『金石識別』が初出と思われる.『金石識別』はDana(1857)の漢訳書である(武上,2014).『金石識別』は明治期の日本の地質学者によく読まれていたようである.
舎爾はshale(頁岩)の発音そのままに中国語に訳されたもののようである(Fryer,1883).使用された例として,たとえば,栗本廉(1886,p.875 )には「又發火は炭層上盤(天井岩)の性質に係るものありて砂石或は蠻石の上盤を頂くものには少くして粘土或は舎爾に多しと云ふ其理たるや前者は其質粗鬆なるを以て瓦斯を埋蓄せず又熱を飛散し易きも粘土及ひ舎爾は之に反對するの作動あれはなり.」という1文がある.
『金石識別』ではTufaを拓發と訳している(Fryer,1883).日本に入ってきてから,中国語の発音を無視して柘撥あるいは拓撥と書かれるようになったらしい.たとえば,Fescaに「東京地方ノ岡丘ヲ構成スル褐色或ハ黒色ノ壌土ニシテ(第三紀ノ上層ニ在ル)嘗テヱ,キンチ氏ノ所謂拓撥壌土(ルビ:トウフローム)ナルモノハ富士山ヨリ噴出セシ火山灰ト第三紀土壌ノ水気ノ作用ニヨリテ飛散標流(註:ママ)シタルモノト混和シタルモノナリ」の文章がある(久馬,2011).
灰石は三省堂『大辞林』の「火砕流の堆積物に由来する,一部が再び溶けたような組織をもつ火山砕屑岩(さいせつがん).暗灰色をし,阿蘇山や鹿児島湾付近にみられる.」を採用した.
磧礫は平凡社刊『大辞典』(昭和10年刊,昭和28年縮刷刊)にしたがって,河原の小石とした.
 
産地地点について
 産出地点はすべて国・郡・村で記載されている.現在でも有名な化石産地も多い.古生代のものでは,美濃の赤坂,登米の米谷,長門の秋吉,備中の成羽,中生代では,土佐の佐川,鳥の巣,領石,武蔵の五日市,新生代では,武蔵の小柴,王子,下総の木下,美濃の月吉,筑後の三池炭山,石狩の美唄炭田などたくさんある.ハマグリ坂,ハマグリ沢,カキ浜,介石山,有名な土佐のクハズ谷など,地名からいかにも化石の出そうなところもある.この目録の紹介が地域の化石研究の一助になるとよい.
 化石については,すでに江戸時代から興味を持っている人々が本草会という名目で交換会をしていた.たとえば天保6年(1835年)に名古屋城南一行院で開催された本草会の目録が残っている.『本草会物品目録』(上野解説,1982)には,化石産地として
本州知多郡須佐村産 此目魚化石,魚石,クモヒトデ化石,キキヤウガヒ化石
美濃産 木化石,石蟹,胡桃仁化石,鯨骨化石,
近江佐治村産 (どぶがい)化石 草蛙蠣(ころびがき)化石
本州知多産 杉化石,(かし)化石
美濃岩村産 魚骨化石                                                                            
美濃峰谷村産 石骨俗称
美濃古瀬村産 龍歯石俗称
などが並んでいる.
なお,ナウマンの主著『日本群島の構造と起源について』の発行は1885年で本目録の1年後であるが,各時代の化石産地が本目録の産地と一致しているものが多い.ナウマンと地学会のどちらのデータが先か知る由もないが,この時代,これらの情報は地質学者がみな共通して持っていたのかもしれない.
 
謝辞 東北大学総合学術博物館の永広昌之氏には菖蒲石に関して情報をいただいた.青山学院女子短期大学の八耳俊文氏からは石蓮に関して情報をいただいた.京都大学人文研究所の武上真理子氏からは『金石識別』に関して情報をいただいた.厚く感謝する.
 
文献
地学会編集, 1884, 本邦化石産地目録. 34p.
Dana,, J. D., 1857, Manual of Mineralogy including observations of mines, rocks, reduction of ores and the applications of the science to the arts with 260 illustrations. New Haven.456p.
Fryer, J. (ed.), 1883, Vocabulary of Mineralogical Terms occuring in the Manual, J. D. Dana, A. M. (傳蘭雅『金石中西名目表』)上海,江南製造局.473 p.
小林貞一, 1980, 四種の地学雑誌と地学会と会誌の草昧期. 地学雑誌, 89, 361-371.
小藤文次郎, 1884, 金石学一名鉱物学.163 p.
小藤文次郎, 1885, 緒言 地学会沿革小史.地学会誌甲部, 1, 1-11.
小藤文次郎, 1886, 鉱物学初歩下巻.沢屋蘇吉, 31 p.
栗本廉, 1886, 坑内發火ノ原因及防禦法.日本鑛業會誌, 2, 870-885.
久馬一剛, 2011, Fesca「甲斐国土性図説明書」と「日本地産論―通編―」からのこぼれ話. 肥料科学, 33, 1〜19.
ナウマン, 山下昇訳, 1966, 日本群島の構造と起源について―ベルリンにおける万国地質学会議のために日本地質調査所が作成した地形図ならびに地質図への付言, 山下昇,日本地質の探究―ナウマン論文集―, 東海大学出版会,167-221.
武上真理子,2014,  漢譯地質學書に見る「西學東漸」−江南製造局刊「地學淺釋」を例として.東洋史研究.73(3),95-128.
東京大学理学部地質学・鉱物学教室卒業者合同名簿作成世話人会, 1988, 東京大学理学部地質学および鉱物学教室卒業者名簿, 26p.
徳橋秀一・両角芳郎, 1983, 和泉層群におけるコダイアマモの分布と産状. 地質ニュース, no.347, 15-27.
上野益三解説, 1982,本草会物品目録, in江戸科学古典叢書45 博物学短篇集(下), 恒和出版,433-512.
安本徳寛編 , 1885, 動物書, 丸善書店,229 p.
Vai, G. B., 2004, The second International Geological Congress, Bologna, 1881.Episodes,27, 13-20.
平凡社刊編,1936,大辞典.639 p.

(日本地質学会News, Vol. 19 No. 8:2016年8月号 p.7-9掲載)